エッセイ

アデスを知るための5つのキーワード
岡部真一郎(音楽学 明治学院大学教授)

© Marco Borggreve

コンポージアム2020は、イギリスの作曲家トーマス・アデスを「武満徹作曲賞」の審査員に迎えます。オーケストラ作品によるコンサート、自身がピアニストとして出演するデュオ・リサイタル、そしてトークセッションの構成で、その音楽世界を紹介します。長年、アデスと親交を深め、トークセッションでも聞き手を務める岡部真一郎氏にご執筆いただきました。

キーワード1
神童

トーマス・アデス(Thomas Joseph Edmund Adès)は、1971年3月1日、ロンドンに生まれた。コンポージアムのために約四半世紀ぶりに東京を訪れる頃には、早くから神童として名を馳せてきた彼も、49歳を数えていることとなる。父ティモシーは詩人で多くの翻訳なども手掛ける文学者、母ドーンはダリをはじめ、ダダイズム、シュールレアリズム研究の第一人者として知られる美術史家。芸術的かつ知的な環境の家庭に彼は育った。生地でピアノ、さらには作曲を学んで、いずれの分野でもめきめきと頭角を現した後、ケンブリッジ大学に進学。ゲールやホロウェイの薫陶を受けた。因みに、ゲールはバートウィスルやマクスウェル・デイヴィスらと共に活動した英国の大家にして、武満徹とも関わりの深かったジョージ・ベンジャミンやジュリアン・アンダーソンら、現在の英国作曲界の繁栄を支える幾多の才能を育てた名教師でもある。
早熟の天才音楽家を「現代のモーツァルト」とするクリシェは現在でもしばしば見られるが、アデスには加えて「ブリテンの再来」と持て囃されることも、殊に早い時期にはあった。ある意味、彼が極めて正統的な英国の天才であることの証とも言えようか。洗練された書法が輝く彼の作品群は、このジャーナリスティックで表層的とも見える形容をも易々と正当化し、誰もを強く納得させるものだ。

キーワード2
オペラ

ピアニスト、そして指揮者として、自作はもとより、幅広いレパートリーを持つ傍ら、現代有数のオペラ作家たることも、アデスについてブリテンを引き合いに出して語られることが多い所以の一つか。
ザルツブルク音楽祭で世界初演された『皆殺しの天使』は、その後、ロンドンのロイヤル・オペラやニューヨークのメトロポリタン歌劇場などの舞台にもかかり、いずれも大きな成功を収めている。原作は、ルイス・ブニュエルがメキシコ時代に撮った長編、映画史に燦然と輝く傑作だ。アデスが世界最高の音楽祭、そして名歌劇場の数々で上演され続ける大作の題材を敢えてこの「不条理」な小宇宙に求めたことについて、上述の環境、恐らくは斯くなる世界が幼少期から身近にあったこと、何より母の存在の大きさと結びつけて考えたとしても、あながち誤りではあるまい。
一方、同じく代表作の一つである『テンペスト』は、もちろん、言わずと知れたシェークスピアの戯曲、演劇についての演劇、メタ・シアターに基づくオペラである。
さらに遡れば、95年初演の室内オペラ『パウダー・ハー・フェイス』は、当時既に音楽シーンの話題を集めていたアデスの名をさらに広く一般に知らしめるところとなった出世作とも見做される。作品の主題は、1960年代の実話、スキャンダラスな公爵夫人の奔放な私生活。ブリテンはもとより、ベルク、ヴァイル、ピアソラなどをも想起させる多彩、あるいは一見雑多なスタイルを自在に行き来しつつ、極めて緻密に書かれたスコアと共に、あからさまな描写的表現でも注目を浴びた。
3作品の題材のみを見ても、アデスの先鋭で自由な感性と、諸要素を見事に有機的に結びつける類い稀な知性の輝きは明らかだろう。

キーワード3
1998 Tokyo オペラシティ コンポージアム

アデスが初めて日本を訪れたのは、1998年。日本における英国祭「UK98」の一環をなす「英国作曲家フォーラム」のために、都内の大学ではトークに加え、アーヴィン・アルディッティとのデュオを聴かせ、さらに彩の国さいたま芸術劇場でも同じコンビでリサイタルを開催。加えて、他ならぬ東京オペラシティのコンポージアムでも、マスタークラスの講師を務めた。
新宿副都心のホテルに逗留した若き日の彼は、リハーサルなどの合間を縫い、駅隣接の商業施設に入った東急ハンズに通いつめ、「あそこになら、何時間いても飽きない」と笑っていた。かの大規模店舗が開店して間も無い頃の話だ。
彼は予てからの鮨好きでもある。本場の人はどう思うかわからないけど、と断りながら、ロンドンでお気に入りのスシ・バーを薦めてくれたこともあったか。『テンペスト』のヴィーン国立歌劇場における公演のタクトを自らとった折には、目と鼻の先に新たにオープンした、音楽の都では恐らく初めてのポッシュな日本料理店にしばしば出向いていると嬉しそうに話していた。
伝統と新しい流れ、最新のテクノロジーとの並置・融合。極限まで切り詰めたシンプルでミニマルな美しさと、その背景を支える技術、細心の目配り。日本に英国の知性が見たものは、「ポスト=ポスト・モダン」などにも通ずる繊細にして大胆なアーティスト自身の資質と響き合う。

キーワード4
ラトル ナガノ ナッセン

ケンブリッジの「修了制作」作品、《リヴィング・トイズ》のロンドンでの「プロ初演」を指揮したのは、2018年に惜しくも亡くなったオリヴァー・ナッセンだった。ハレ管弦楽団の「座付き作曲家」のポストにアデスを迎え、新たにその本拠として建てられたブリッジウォーター・ホールの杮落としのために作品を委嘱したのは、このマンチェスターのオケの音楽監督を務め、名匠バルビローリ時代以来、再び彼らを国際舞台に返り咲かせたケント・ナガノだ。いずれも、周知の通り、オペラシティ縁の音楽家である。
アデスが、イッサーリスやボストリッジなどとの共演で大きな成果を上げていることも見逃せまい。ドホナーニ、マズアなどの巨匠をはじめ、世代、そしてジャンルを問わず、アデスと親交を結ぶ第一線の演奏家たちには、枚挙にいとまがない。
殊に、指揮者としては異例なほど、早くから輝かしい活動を展開してきたサイモン・ラトルは、自らの体験を踏まえてのことだろう、同様に特別の光を放つ若き才能を熱心にサポートし続けて来た。指揮者のハーディング、作曲家のターネジらとの強く深い絆は広く知られるところだが、中でもとりわけ、アデスとは、年回りの違いもものかは、互いに強く惹かれるところがあると見える。バーミンガム市交響楽団時代の彼は、オケのメンバーを中心に肝いりで創設したバーミンガム現代音楽グループ(BCMG)の初代音楽監督にアデスを抜擢している。
さらに、2002年9月、ベルリン・フィルのポストへの就任記念演奏会、マーラーの交響曲第5番と共にプログラムに組まれたのは、前任地でのアデスへの委嘱作《アサイラ》だった。現代随一のマーラー指揮者でもあるラトルにとって、アデス作品は同様に「十八番」ということだ。また、この名門とは、2007年、《テヴォット》を委嘱初演し、また日本を含むアジアツアーなど、各地でも披露している。

キーワード5
拓く

バリトンと管弦楽のための《ブラームス》は、アルフレート・ブレンデルの70歳を祝って委嘱され、ハンプソンの独唱、ドホナーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団により2001年に初演された小品。アデスは、ブレンデルの詩集『指が一本多すぎる』にテクストを求め、さらにブラームスの《第4交響曲》のモティーフを参照しつつ、オマージュを巧みに構成した。ブレンデルと言えば、ブリテン縁のオールドバラ・フェスティヴァルでの様々な催しも忘れられないが、また、同じく巨匠を私淑する内田光子も、芸術監督を務めたアデスにより、『ピーター・グライムズ』の舞台ともなった村で毎年開かれるこの音楽祭に招かれている。
かくも幅広い交友関係を持つ彼だが、アルディッティとの共演は、意外にも件の98年の東京が初めてだった。日本での成功が契機となり、《ピアノ五重奏曲》が作曲され、アデスとアルディッティ四重奏団により初演が行われたのは、2001年のことである。オペラシティはここでも、同時代音楽の創造に一役買ったということになる。
単一楽章、20分ほどの作品は、外見上ソナタ形式をとり、呈示部の繰り返しまであるが、その内実は、伝統的、古典的なこの楽式とは明らかに一線を画す。「新古典的」のように見えて、ソナタは単に発想の出発点、あるいは表層の外枠を与えるのみの仮の姿で、本質は全く性格を異にする。斯くなる特質は、この作品に限らず、早くから一貫して、過去への参照を含め、時代、様式、ジャンルの境界を軽々と超越し、全く新たな地平を拓くアデスの音楽の核心部分であり続けている。

しなやかさと名技性を兼ね備えたピアニストとして、またアーティストたちの音楽性を余すところなく引き出すタクトさばきも印象的な指揮者としての活動は、作曲家トーマス・アデスのエッセンスの直接の反映だ。今回のコンポージアムは、間違いなく、それら全てを存分に味わい尽くす絶好の機会である。

東京オペラシティArts友の会会報誌「tree」Vol.138(2020年2月号)より

(無断転載禁止)