◎Part3:会場からの質問


─ 生きるということについてもう少し聞かせてください。
う〜ん・・・・・・難しい問題ですね。一見単純なものほど一番難しかったりします。一ついえることは、自分が大事だと思ったものを、「価値がある」とする自由な権利を人間は持っているということです。僕の人生のなかで最初の大きな衝撃は、両親が大事だと思っていることと自分が大事だと思っていることは違うんだということを思い知らされた時でした。みんなもそういう経験があると思いますが、社会や周りの人は、彼らが大事だと思うものを僕たちに何とか押しつけようとする。けれど、人間はそれを自分の目で自由に選ぶことができる、というのが素敵なことだと思います。突き詰めていえば、先ほどの「観察する」ということにもつながると思います。
そして忘れてはいけないもう一つの大切なことは、「もの」というのは、一見したときとは実態が違うことが往々にしてあるということ。一見して「こういうものだ」と思いこんでいたものの本性が、全く逆だったりします。具体的に言うと、世の中で大きな確信を持って「これが上品である」、「これが格式がある」、「これが価値がある」、「これが美しい」と思っている人たちの基準というのが、実は全く何の根拠もなかったり、偽りの根拠に基づいていたりする場合が往々にしてある訳です。僕自身、ゲイなので、本当に若いときから、自分が美しいと思うことが世の中では罪だと見られてしまうことに気づいたんです。そういう風にして一人一人が自分のことをちゃんと見極めて、「これはこういうものだ」とかたくなに思い込まないということですね。こうだと思い込んでいたことが、次の日には全部ひっくり返ってしまうような事態になるかもしれない。そういうことを常に自分のなかの可能性の一つとして持ちながら、自由に流れていくという考え方を持ち続けることが大事だと思っています。

─ 挫折したことはありませんか?意見の食い違いにはどのように対処しますか?
・・・・・・(沈黙)・・・・・・え〜と、答えに詰まってしまった理由は、どうも意識に空白があるみたいで、あんまりひどい目にあった記憶が残っていない気がするんです。ただ、写真の持っている可能性を追求するうえで、もちろんテクニカルな点で上手くいかなくて何となくイライラしたり、行き詰まったり、ちょっと腹立たしく思ったりすることはいくらでもあります。でも僕は基本的に何でも前向きにとらえて、良い意味で自分の糧にしようとします。
人から受けた批判や意見といえば、学生の頃、鍋に入ったソーセージだとか、苔のクローズアップ、赤目になって写ったアダム(*ティルマンスの友人)のポラロイドなどを、同級生に「不真面目だ」とむちゃくちゃ非難されたことがありました。でも僕としてはかえって元気が出たぐらいでした。というのは、周りの言うことに耳を貸すなと決して言っているのではなくて、要するに自分があまり素晴らしいと思っていない人たちから何を言われても、そんなに残念がる必要がないということです。それほど大した問題ではないと思うんですよ。似たような話として、ベルリンの学校に通い始めた時、そこで学校の先生が最初に叫んだのが「今までのことはすべて記憶から消し去れ」ということだったんですが、6週間ぐらい経ったところで、やってられないと思ってやめました。自分で記憶を抹消するなんていうことは、到底できませんから。大事なのは、批判されても、自分を信じ続けていく自信を持つことです。盲目的な自己への過信や自己満足的な過信は禁物ですが、そのバランスが重要なんだと思います。

─ テクニックをわざと使っていないように見えるのですが?
テクニックは基本的に、自分が意図したものを生み出すための手段として、徹底的に技術を使い込んでいく、使いこなしていくためのものです。イデオロギー的な要素が全くない取り組み方をしているとも言えますね。僕は自分が追究しているものを実現するために活用するものとして、技術を捉えています。一番高いカメラや一番大型のカメラが、一番良い結果に結びつくとは限らないということです。僕にとって大事なのは、自分の生活に邪魔にならない程度のカメラであることと、それが自分の持っている構想を実現してくれるものであるということ。日常的に持ち歩いているカメラはかなり小型のものです。10年ぐらい前に使っていたのは、コニカのビッグミニでした。ちょっと操作することで、オートマから露出オーバーにできたり、シンプルなアマチュア向けだけではないおもしろさがありました。でもコニカが製造中止にしてしまったので、いまはコンタックスのT3を使っています。それ以外の35ミリ・フィルムのカメラを使うこともありますが、35ミリを使う理由は、動きやすくて自分の生活に邪魔にならないうえに、自分の世界の見え方にちょうど重なっていくような粒子のレベルを実現できるからです。もっと大型のカメラを用いたスーパーリアルな画像を好む人たちもいますが、僕にとってそれは、自分に見えている世界とは違うものになってしまうんじゃないか、と思うんです。つまり僕は、自分が見ているものを、「世界はこういう風に見えているんだ」と、みんなが自然に体験できるような作品を作るために、「テクニックをできるだけ隠す」という技術を使っているんです。それが僕の「カメラ哲学」です。いかにも簡単そうで、大したことなさそうに見せかけるというのが、実は一番大変なことですよね。「アートらしく」したり、いかにも大変なことをやったように見せる方が、簡単にできます。

─ 若いファンが多いということについて、どう思いますか
とてもありがたいと思っています。感激しています。自分が写真とまじめに向き合い始めた80年代、僕が20歳そこそこの頃には、「自分の世代の声は世界に聞き届けられていない」という気持ちがありましたが、そのうちに世界の方が反応してくれて、90年代からいろいろと注目してもらえるようになりました。他の誰もが関心を寄せず、取り上げてくれなかったことに、若い人たちが関心を示してくれたんだと思います。それに、本当のメジャーにはなっていないということもあると思います。おかげさまで多くの方々に応援してもらって成功してきましたが、それは全ての範囲での成功ではないということです。つまりこの場合のメジャーというのは、商業的に大成功をして広告などにバンバン使われるというようなことですが、僕は広告に自分のイメージが使われるということに関して、徹底的に目を光らせてきたし、いわゆるセレブの世界に取り込まれたこともないです。そういった意味で世界のマーケット化や、メディアのなかですべてが行なわれていくような世界から、自分を微妙に外してやってきたというのが良かったんだと思います。

─ ポスターのフレーズ(「僕は写真を撮る。世界を知るために、つながるために。」)について。やっぱり世界と繋がっていた方が良いと思いますか?
結局、一人ぼっちになりたくない、孤独になりたくないというのが出発点だと思います。それは根元的なものですね。僕は13歳ぐらいの頃天文学に夢中で、毎晩空がちゃんと見える状態であれば、星空を眺めていたんですが、そこにもつながるんじゃないかと思います。要するに、自分が一体どこにいるのか、自分の立ち位置を確認したいという欲求が常にあったんだと思います。自分の足を撮っている写真がありますが、そういうこだわりもやはり、自分がどこにいるかを見出したいからじゃないかと思っています。最終的には、一人きりになりたくない、孤独は嫌だという思いがあるんだと思います。



ヴォルフガング・ティルマンス展|Freischwimmer
ヴォルフガング・ティルマンス アーティスト・トーク
2004.10.16[土]東京オペラシティアートギャラリー(ギャラリー2)にて
(c)ヴォルフガング・ティルマンス/東京オペラシティアートギャラリー





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