◎Part2:インスタレーションについて

─ インスタレーションで、さまざまなサイズと素材の写真を取り混ぜることについて、どのように考えていますか?
インスタレーションにも、僕の世界観、つまり僕が世の中をどのように見ているかが反映されています。世の中は全てのものが同じような倍率で、同じような距離にあるように見えるのではなくて、本来は大きなものが小さく見えたり、小さいと思えるようなものが大きく見えたりするものです。
それに、写真という媒体は本と非常に相性が良いので、写真集として印刷されるとしっくり収まりますが、僕としては正直なところ、それだけに限りたくなかったんです。昔からギャラリーの空間が持っている意味合いや、場所性ということに対して非常に興味を持っていたし、展覧会形式の発表というのは決して付け足しではなくて、僕自身の制作にとって根源に関わることだと思っています。だから展覧会ごとに、その空間やスケール感をいろいろと試してみたりします。そうして、自分自身が作品と直接対峙しているときのインパクトを常に求めます。少年時代、アンディ・ウォーホルの実物を初めて見たときに、ウォーホルの作品が持っている影響だけではなくて、「本物」を目にしているんだという感覚がありました。それをぜひみんなとも分かち合えたらと思います。

そしてもう一つ、昔から機械的に制作された作品や画像に魅力を感じてきたということもあります。機械が生み出したものなのに、ちゃんと感情に語りかけてくるのがおもしろいと思って。子供の頃から、新聞に大惨事や気になる人の顔写真が載ると、いつもそれをじっくり眺めていたものです。レコード・ジャケットのデザインなどが完璧なものに思えて、惹かれていた時期もありました。そうしたことの意味を考えていくうちに、1986年にキヤノンの初代の白黒レーザーコピー機と出合って、使ってみたら、目を見張るほどの完璧な白黒プリントができることが分かったんです。それまでには全くなかった、思ってもみないほど美しいものでした。それから、おそらくみんなそうだと思いますが、僕は雑誌が好きで、ページをずっと眺めては印刷の質などを飽きもせず見ていました。機械によって生み出されているからといって、決して命のない、死んでしまった表面ではないということが、とてもおもしろいと思います。日本や他の国では違うかもしれませんが、イギリスの保守的な一部の評論家の間ではまだ、写真などの機械的な手段で制作もしくは複製された作品は、本当の意味でアートではないという論陣を張っている人たちがいます。もちろん僕たちはそれが間違った考えだということが、もうよく分かっていますが。それと、写真を実際に撮っていない人の場合、写真を一つのイメージとしてだけ見る傾向があるというのも、重要な点だと思います。僕はそうではなくて、写真が持っているマテリアルとしての部分も含めて、全体としてつかんでもらいたいと思うし、写真をまさしく三次元的なオブジェ、つまり物体に相当するものとして体験して欲しいと思っています。

─ 額装する作品としないはどのように区別していますか?
99年から意識的に額装をするようになった理由は、先ほど話した写真のオブジェ性と関係していますが、対象物としての意識を見る人に持ってもらうための仕掛けとして考えことがあります。それに、一つには僕の展覧会を見る人がそれなりに予想しているイメージを、敢えて裏切ろうと思ったこともあったんです。「ティルマンスだったら当然フレームを使ってないだろう」と思われているところで額装をしてみたら驚くんじゃないかとか。そうすることによって、写真、つまり「オブジェ性を持った対象物であるイメージ」と見る人との対話、そしてそのディスクールを維持するということも考えました。仕掛けだけのことであれば、額や写真の大きさを変えているということだけに終始してしまうでしょうけれど、よく見てもらうと、それなりのルールや考え方に基づいて、額装するかどうかや、作品のサイズなどを決めていることが分かると思います。僕の作品と展示を構築している根底の構造と基盤がなかったら、到底まとめきれないですよ。大きさそのものについては、イメージによってある程度決まるものですが、例えば大きさが同じように見えても、よく見ると印刷の仕方によって額装するか否かを決定しているものもあります。12年かそれ以上の年月をかけてだんだんと蓄積しているような方法なので、決して数ヶ月の思いつきではなく、理論や考えがあってやっているものです。

─ 展示はどのように進めていったのですか?
具体的にはまず、インスタレーションを始めるかなり前から、ギャラリーでの計画を立てます。僕のスタジオはかなり広いので、大きなモデルをそのなかに作って、そのなかで実際に一枚一枚の写真の大きさを決めていくことができるんです。でもそれは、実はそれほど大事ではなかったりします。モデルを作るのは、作品が大きければ大きいほど輸送費がかさむので、全部で何点ぐらい輸送するとか、大きいものは何点ぐらいとか、そういうことを考えるためというのが一番大きな理由ですね。ここに来てからは最初に、もともと別の位置で見せようと思っていたヴィデオの作品を、展示の流れを壊さないようにしたいと思って、一番奥に移動することにしました。
それから、大きな展覧会の場合、それまでに展示したことがない大きな作品を、自分自身の楽しみとして入れるようにしていて、例えば僕の背中側にある《フライシュヴィマー(遊泳者)オストグット》Freischwimmer ostgutと向こうの《嵐の後》after stormは僕自身まだ見たことがなかったから、それを空間で配置してみてどう見えるのかが楽しみでした。それでこの2点から位置を決めていきました。実際に空間を見ながら展示をするということは、その空間を自分のものにしていくということだと思います。空間の特性をとらえて、そのなかで何ができるんだろうって考えるんです。長い壁面が続く場合、そこに単一の方法で展示してしまったら非常につまらないだろうな、とか計算しながら。だいたいまず大きい作品の場所を決めて、その合間をどのように考えていくのか、という段取りで進めますが、何百枚も持ってきたし、同じイメージでも大きさの違うヴァリエーションがある作品もあるので、そのなかから自分にとって大事な作品、みんなに見て欲しいと思うもの、新作、自慢の作品、そして自分にとって大切だからみんなにも分かって欲しいと思っている作品を選んで配置していきました。ただしそれだと多すぎるので、何度も間引きしていくという作業を繰り返しながらになりますが。

展覧会の全体像をつかむために大事なのは、自分の本能がどういう風に反応していくのかを整理して、そこに結びつきを見出していくことだと思います。そういった関係性は、形態の上のことだけではなくて、実際のなか身、つまり作品そのものが含んでいる事実に対しての関連性というものもあります。例えば、かなり早く決まったのが、右手にある5枚の作品の配置なんですが、リンゴの木があって、ネズミがあって、そして太陽を横切っていく金星の姿がありますよね。全く関係ないじゃないかと思うかもしれませんが、いずれも観察する、ずっと見ていくということに関係しています。観察し続けることが持っている力と、その魅力に対してこだわりがあるんです。現状のなかで、目の前にあるものに対して取り組んで力を得ることと、常に人、そしてテクニックと関わり続けていることが、僕の作品の良いところだと思います。僕の作品の根幹にあるのは、観察をするということ、ずっと見ていくということに他ならないと思っています。そこで大事なのは、観察するとか見るという行為は受け身だと思われがちなのですが、そうではなくて、逆に能動的に、こちらが働きかけなければならないということなんです。


今振り返るとまじめな話ばかりしてきた気がしますが、僕がやっている全てのことの根底にあるのは「遊び心」、つまり「楽しみたい」とか、「不思議だなぁ」といった気持ちなんだ、と言うことを付け加えておきます。ただし、そういう気持ちから始まりはするけれども、最終的にはきちんと向かい合って分析をする、という作業が必要ですけれどね。本能のまま何も考えようとしないで続けるだけなら、ただ果てしなく生産するということにつながってしまいます。世の中にはあまりにも往々にしてそういうことがあるので、やはり根底にある遊び心や好奇心に身を任せながらも、どこかできちんと向かい合って理論的に検証することを忘れてはいけないんです。

─ 日本での反響についてはどう思っていますか?
日本での反応の特徴としては、みんな僕の作品の軽薄と思われるような要素をまじめに取り上げて考えてくれますよね。それはとてもありがたいと思っています。あと、シニカルに鼻で笑うような態度がないというのも嬉しいです。僕は、馬鹿げたことやユーモアや、場合によっては露骨に下品なことも、実はあまり嫌いではないんですが、シニカルであることだけは嫌いなんです。世の中を前向きにとらえていくことは僕にとって大事だし、本当にささやかなことでも大切にしていく姿勢も大事だと思うので。



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