◎ヴォルフガング・ティルマンス アーティスト・トーク

このテキストは、2004年10月16日[土]に行われた「ヴォルフガング・ティルマンス アーティスト・トーク」を、記録をもとに、ホームページ用に編集したものです。

*テキスト、写真の無断転載・複製等を固く禁じます。

逐次通訳:横田佳世子
協力:『美術手帖』編集部(美術出版社)




◎Part1:作品について

─ 主題の種類と数、その増え方について、現在どのように取り組んでいますか?
それはけっこう難しい質問ですよね。というのは、僕が作品を作る時には、何枚作るとか、どういった分野で仕事をするかとか、特に計画してやっている訳ではないから。後で振り返ってみた時に、「木が多かったな」とか、「セルフ・ポートレートだったんだ」、「自分の身体の一部をクローズ・アップして撮ってたな」などと気づくので、一つのテーマを具体的に決めて取り組んでいる時以外は、テーマの数やどういった広がりがあるかということは決めにくいです。その方が自然だし、自分の生き方にもかなっていると思います。生きていくうえで、自分の生活のなかにはこのような部分とこのような部分がある、という風に整理している訳ではないので。
ただ、アーティストである以上、自分で一番良いと思う作品、傑作といえる作品は、何故傑作になったのかということを分析していくものだと思います。誰だって自分の最高の作品と、もう一度同じぐらい良いものを生み出したいと思うものだから。でもどんなに頑張っても、結局は自分の暮らしのなかから出てくるものであって、撮影した枚数とか、どういう風に撮影したかとか、使ったフィルムの本数とかいったようなことで具体的に整理できるものではないと思います。そういった外的な要因によって定められるものではなくて、あくまでも自分のなかで、人間としていつも変化に対して柔軟であり続ける、そういった流れ続ける存在であるということが、むしろ自分にとっては大事だと思います。

─ 一つのテーマを具体的に決めて取り組む「シリーズ作品」は、どのようにして出来てくるのでしょうか?
一番良いアイデアというのは、実は最初に思いついた時には、大したものに思えないようなものなんです。些細で特に大切でもなく、ちょっとした冗談としか思えないような小さな種から、一番偉大なアイデアというのは生まれてくるんだと思います。僕が94年から95年頃にかけてニューヨークに住んでいた頃、そこではネズミが町なかを走り回っていました。その光景は、後で考えると当たり前すぎて、何故気づかないのかと思うほどのテーマだけれど、あるときふと道ばたに立ち止まって真剣に見てみたら興味が湧いてきて、ちょっとしたプロジェクトをやってみようかと考えたんです。そういう風に、まず何かに注意を喚起されます。視覚的な手がかりに引っかかって、それから、それは一体何なんだろう、何故そういうものに対して興味があるんだろうと追求するんです。僕は知性による結果ではなく、本能的で非論理的な反応を非常に信頼しています。意味を成しているかいないかということではなくて、それをいじっているうちに、作品としてどのように落とし込んでいくことができるかが、だんだん見えてくるんです。
例えば「コンコルド」シリーズで取り上げているコンコルドには、見るたびに目を奪われていたんですが、「実際にはどうなんだろう?」と真剣に向かい合ってみた訳です。空を飛んでいるこの小さな飛行機を見上げては、「これは97年にまだコンコルドが飛んでいた時代、宇宙開発が華やかだった時代の最後の名残なんだ」ということをいつも噛み締めていました。コンコルドが初めて正式に飛行したのは69年のことで、あの宇宙開発時代の当時は今と違って、テクノロジーと輝ける超未来が、ともかく無邪気なまでに信じられる時代でした。そういう視点でこの「コンコルド」シリーズを見ると、未来に対する憧憬と、ちょっと物悲しいメランコリーを同時に感じることができると思うし、その一方で56枚組のやや抽象的なカラー写真のシリーズ、と見ることもできます。そういった意味で、コンコルドにまつわるアイデアそのものと僕が惹きつけられていたものの間として、この作品を見てもらえるんじゃないかなと思います。

─ 写真とヴィデオ作品の違いがあるとしたら、どのようなところですか?
写真が持っている最大のパワーと利点は、写真には前もなければ後もない、写真という実在しているそのものだけがある、という事実です。要するに、写真によって「これはこうなんだ」ということを、相手に対して突きつけることができる。それ以前もなければそれ以後もないというところが、素晴らしいところですね。何かを紹介する必要もなければ、何かをまとめてケリをつけなきゃいけないこともないし。映画や映像作品ではまず場面設定をする必要がありますよね。その違いは人生とも重なるんじゃないかと思います。生きるということは矛盾だらけで非常に滑稽だし、ばかげたこともたくさんある。奇妙なことや訳の分からないこと、理屈に合わないこと、説明のつかないこと、ろくでもないことがいくらでも起きるけれど、そのなかで僕たちは全ての雑多な物事を超越して、生きていく訳です。一方で動く映像作品だと、やはり考え方の違いを痛感するんじゃないかと思います。僕自身は、リニアに始まりがあって終わりがある、いわゆる「起承転結」的なもので語ることには向いていない人間だと思っています。けれども、一枚のスクリーンのなかで、一連のスチールで語ることはできる。だから、僕自身が手掛けてきた映像作品のなかで一番落ち着きが良いのは、やはり始まりも終わりも明確には定められていない、オープンエンデッドなものではないかと思います。その意味で僕のヴィデオ作品はまさに、「映画」の元々の英語、「ムービング・ピクチャーズ(活動写真)」だと思います。

─ 抽象作品についてはどうですか?
僕がやっていることは、画家や彫刻家と大して変わらないんです。自分の表現のための手段であって、自分の考えをできるだけ反映させようとしているだけだと思います。自分が思っているような効果を上げるにはどうすれば良いのか、例えば夕焼けの写真を撮るにしても、陳腐なものにならないようにするにはどうしたら良いのかということを考えて、可能性を探りながら制作していく訳です。僕は写真表現へのこだわりというよりも、自分が望んだとおりのイメージを描き出せる媒体として、写真を完全に使いこなせるようになってきたことに満足感を持っています。それがあくまでもアナログの技法だということも気に入っています。僕の作品は全て、光、写真材料、そして印画紙の効果と性能を駆使した結果、生まれたものばかりで、デジタルは全く使っていません。
制作というのは、自分が選んだメディアの可能性を探っていくことなんじゃないかと思うんです。フォルムは進化しながら変わりますが、革命的に一大変化をするというような類のものではないですね。例えば、この大きなインクジェット・プリントの作品(《スポーツのあとのしみ》Sportflecken)。ここに写っているTシャツのシミは精液で、これを「精液のシミがついたTシャツ」と見ることもできますが、僕にとって大事なのは画面のなかの構成の方です。昔から自分にとってそういう見方が大事だったので、抽象的であろうとなかろうと、僕にとっての違いはないんです。もう一つ作品を作る上でのルールとして決めているのは、あくまでも写真表現の可能性を追求していくということ。デジタル加工や処理に一切頼らないで、写真という技術が持っている力とあらゆる変化と可能性、そういうものだけを活用して、自分の表現をすることを続けています。


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