インタビュー Interview

写真を撮ることは、自分の外にあるものを引き受けるということ

5つのシリーズからなる今回の展覧会のコンセプトについて、鈴木理策氏にうかがいました。

2015年6月16日[火]
東京オペラシティ アートギャラリーにて

今展で鈴木さんは《海と山のあいだ》、《SAKURA》、《White》、《Étude》、《水鏡》と、5つのシリーズを発表されますが、全体を貫くテーマについてお聞かせいただけますか。

人はたいてい写真に写っている対象が何かわかると、見るのをやめてしまいます。無意識のうちに写っている内容を言葉に置き換えて、たとえば「熊野の風景だ」「桜だ」「雪だ」という具合に対象を認識したとたん、それ以上見ようとはしません。でも見るという行為は、ゆらぎを含んだ動的なものであるはずです。そこで私は「○○の写真」ではなく、「見えていること」そのものを提示したいと考えました。
たとえば「海と山のあいだ」の新作の主題は、神話以前の風景を手に入れることにあります。「ここが記紀神話で登場する、あの場所ですよ」という後追いのイメージとしてではなく、かつてそこに神話的光景を見い出した太古の人間、その人が感じたものを写し撮りたい、という思いです。

写真集と展覧会における作品体験にはどのような違いがあるでしょうか。

シークエンスの問題に注目して考えてみると、写真集はページをめくると見ていたイメージが目の前から消えてしまうので、先に見た写真が経験として重なり、前後の関係性が感じられます。束ねられたページの集合である写真集はリニアな時間性を生むのに適しています。一方、展示におけるシークエンスは、写真の前後を密接に関連付けることよりも、ひとつの時空で鑑賞者を包むといった性質のものだと思います。展示室で作品を見て行く時には、向こうの壁にも写真があるな、ということを感じながら進んでいくわけで、空間を歩く時間の中で写真が経験されていきますよね。写真集の中には一篇の時間が入っていて、表紙を開くとそれが再生されるのに対し、展示のシークエンスは見る人に委ねられた時間の中で生まれる、という違いがあると思います。

鈴木さんの写真からは構図にしてもシャッターチャンスにしても、意図的な要素が感じられません。たとえばフレーミングは、どのようにして決まるのですか。

レンズの画角を知っているので、どこまで入るかというのはあらかじめわかります。そういう意味ではフレーミングしているかもしれませんが、ああ、いい風景だな、とか、いい光だなと思ったら、だいたいの場所にカメラを置いています。そこからカメラを動かしたりすると、これを入れたな、などということが画面にあらわれてしまうので、動かさない。こねくりまわさない。写真的な構図を考えない。考えないことを考えているんですよ(笑)。
私の写真はこう撮りたいというよりは、写ってしまったという写真ですよね。言い換えれば、写真を撮ることは自分の外にあるものを引き受けるということだと思っています。

本展では写真のほかに動画3点が出品されます。実験的な映像ですね。

これらの動画はすべてデジタルカメラの動画モードで撮影したのですが、フレーミングしたり、フォーカスを合わせたり、シャッターを押すといった一連の基本動作がカメラで写真を撮るのと同じなのです。写真を撮り続けてきた自分の身体がそれを覚えていて、そのように反応してしまうことに興味をひかれました。私にとっては動画も写真、つまり連続する写真なのです。
《火の記憶》は動画の中の時間がテーマです。写真のスライドショー、動画、さらに動画の静止画へとつながります。すべて一本の動画の中で起こっていることなのですが、それぞれに違う時間が流れているかのように感じられるでしょう。同じ時間の流れの中にあるのにも関わらず、それぞれが切り替わる時にズレや違和感があって、異なる時間性を体験する感覚が面白いと感じました。
こうした動画の撮影によって、ふだんカメラで撮っている時に何が起きているかということもわかります。《The Other Side of the Mirror》ではフォーカスが奥行きと水面を往き来しているのですが、水面にフォーカスが合うことで、水面というものがレイヤーとして存在することがわかります。
《Sekka》でもカメラのフォーカスは自動で常に動き続けているのですが、それを見る私たちの目には、フォーカスによって見えなかったり、ぼんやりと見えたり、美しいと思う瞬間があるわけです。

2014年から取り組まれているシリーズ《水鏡》では、どのような試みがなされているのでしょうか。

これはレイヤーの問題を扱ったもので、2001年のグループ展「セゾンアートプログラム アートイング東京2001 生きられた空間・時間・身体」で水面の三つのレイヤーを合わせたものを並べて展示したのが最初です。水面を撮るとフォーカスがずれる、つまり、水面に写り込むものと、水面と、水底と、三つは同時に手に入りませんよね。しかもピントを合わせていくと、それが消えたり現れたりということが起こる。そのことへの関心から始まりました。当時の展示では水面の三つのレイヤーを撮影した作品を並べて展示したのですが、全部違う写真に見えたので、誰も気づかなかったようでした。少しコンセプチュアルすぎる感じがしたので、ひとつのアイディアで終わってしまわないように寝かせておきました。14年経った今、風景に仕掛けがあるようにすっきり見せられるようになったかなと思います。

本展のタイトル「意識の流れ」は鈴木さんご自身の経験に基づくものですね。「見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶やさまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある」─ 。

写真というのは静止しているから逆に、見る時間が流れているのを感じるということでしょうか。そこには見る者の記憶というものが関わってきます。

鈴木さんが以前、対象を「目玉だけになって見る」とおっしゃっていたことが強く印象に残っています。

目玉だけになる ─ カメラは目だけですからね。つまりカメラが目だけで存在しているということを言いたいのです。写真とはフォーカスを合わせて欲しいものを撮るようでありながら、そこにはズレがあります。実際の時間とズレるし、撮り手が必要としないものも写ります。ですから私たちがいかに必要なものだけを選びとり、見たいものだけを見ているかとういうことを写真によって知らせたい。欲しいものが写っている写真は撮り手が「必要だった」ということを語りますよね。でも「そうでなく写っている」写真。普通はダメな写真として不採用にするでしょうけれど、撮り方や構図を見るのが写真なのではなく、目的もなく撮られた写真に世界がある、世界が写るということが起こる。そのことを伝えたいのです。

鈴木理策写真展 意識の流れ

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