2005.1.15[土]─ 3.21[月・祝]
無数かゞやく鉄針を 水平線に並行にうかべ ことにも繁く島の左右に集めれば 島は霞んだ気層の底に ひとつの珪化花園をつくる 銅緑(カパーグリン)の色丹松や 緑礬(りょくばん)いろのとどまつねずこ また水際には鮮らな銅で被はれた 巨きな枯れたいたやもあって 風のながれとねむりによって みんないっしょに酸化されまた還元される 宮沢賢治(*1) 宮沢賢治が「珪化花園(シリカガーデン)」とその詩のなかで綴った「ケミカル・ガーデン」。一体どのような花園だと思いますか?言葉の響きからは、色とりどりに咲き乱れる花々や珍しい品種が茂る花園を思い浮かべるかもしれませんが、残念ながら私たちが実際にそこを散策することはできません。というのは、それは化学反応によってビーカーのなかにできる小さな結晶の樹林(*2)のことで、ビーカーのガラス越しにじっと見つめるしかないものなのです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
馬場恵もまた、「ガラス越しに見つめる人」です。イギリスに行く機会があるたびに、自然史博物館に展示されている鉱石、王立キュー・ガーデンズの花々、その温室で開催される「蘭展」の蘭などを飽きもせず眺めては、ガラスの展示ケースの上から、もしくは花の上にかがみこんでカメラのレンズ越しに写真に撮るといいます。その枚数はここ7〜8年で約2,000枚にも及びます。馬場がその写真のなかから特に心惹かれてモチーフにするイメージはほんの十数個ですが、あるときはそれらをシルクスクリーンの版の型として、またあるときはキャンバスにその一部分を描き出し、作品のなかで繰り返し再生させています。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
馬場は卒業後間もない頃の作品でも花びらを写真に撮ってモチーフにしていましたが、そこに具体的に「花」を描く意図はありませんでした。「記憶のなかに残っているものの組合せで、自分なりのかたちをつくっていきたい」と馬場は述べています。例えば《ケミカル・ガーデン》は、鉱石や花をモチーフにしたもので、作品名とモチーフは一致していません。馬場の記憶のなかに一度沈殿した形が、時間を経て部分的に作品に還元されて、その集合体が新たな表現として再生されているのです。 馬場の作品制作は、直接手を触れることができないものの触覚性を想像し、形にして視覚化することです。目で手触りを楽しむ行為、といえば良いでしょうか。綿布に筆で色の曲線をさまざまに散りばめ、その上の部分部分にシルクスクリーンでモチーフを刷り、さらに筆で一つの形に向かってそのバラバラなものを統合させていく ─ 複数の技法と色彩で異なる質感を出しながら、一つの画面上でそれらを重ね合わせることで、平らなようでもブツブツとした塊や葉脈を感じられるような形が出来上がります。馬場の作品を見る醍醐味はここにあります。私たちがそれらの作品のなかで、気になるものと出合うこと ─ それはきっと、ガラスの展示ケースに収まった何千点という鉱石のなかから、気になる石と出合う経験に似ていることでしょう。
こうした変化は、画面の下層で結びついた複数の色と形が、今後の作品では表面に見える形から遡って見えるようになるかもしれないと予感させます。ちょうど割れた鉱石の平らな断面に現れた、その下の意外な色層に驚かされるように。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
馬場自身は宮沢賢治に特別な興味はなく「ケミカル・ガーデン」も書籍の図版で見ただけであるといいますが、それに受けたインスピレーションを宮沢賢治が詩に詠んだ一方で、馬場恵は絵画に還元しています。偶然によって生まれた些細でバラバラな結晶でも、一つの表現に還元し得るということを、どちらも本能的に知っていたのでしょう。宮沢賢治も馬場恵も、異なる時のなかでガラス越しに見つめながら、珪化花園をきっと想像力で散策していたのではないかと思われます。 * 1 宮沢賢治「春と修羅 第二集[つめたい海の水銀が](1924.5.23)」、『【新】校本宮沢賢治全集 第三巻 詩II 本文篇』(全14巻)、筑摩書房、1996年2月25日、p.79 * 2 ケミカル・ガーデン:珪酸ナトリウムという薬品を水に溶かした「水ガラス」と呼ばれる液体を薄めたものに、塩化コバルト、硫酸鉄、硫酸ニッケル、硫酸銅、硝酸クロムなどの結晶を落とすと、数時間かけて結晶から緑や青などさまざまな色の細い海藻のようなものが伸びて、やがて水面まで達するようになる。(板谷栄城「珪化花園」、『宮沢賢治 宝石の図誌』、平凡社、1994年、p.54参照) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|