収蔵品展046 聖と俗 2013.10.11[金]─ 12.23[月・祝] 小嶋悠司《穢土》天然岩絵具,膠彩,デトランプ,麻布 115.0 x 77.0cm,1997 photo: 早川宏一
小嶋悠司
《穢土》
天然岩絵具,膠彩,デトランプ,麻布 115.0 x 77.0cm,1997
photo: 早川宏一

現代における聖と俗のありか

聖なるものは、古来より、清浄で高貴、崇高な光として、また不気味な戦慄として、人々を惹きつけ、魅了してきました。聖なるものの体験は、つねに宗教という営みの最も大きな動因であったといえますが、信仰なき時代といわれる現代においても、人はさまざまなかたちで聖なるものに惹かれ、またさまざまな事象に聖なるものを見いだし続けているのではないでしょうか。そして聖なるものの発現には、原理的に俗なるものとの分離、区別がともないますが、それにもかかわらず両者はときに通じ合い、じつは不可分といえるほど強く結びついています。とりわけ現代におけるさまざまな表象において、聖と俗はしばしば流動、交錯し、反転しさえします。俗なるものを通した聖性の顕示を模索することは、今日的な関心においてより重要となっているといえるでしょう。

松生歩《裳裾が触れる》顔料,紙 178.5 x 76.0cm,1996 photo: 斉藤新

松生歩
《裳裾が触れる》
顔料,紙 178.5 x 76.0cm,1996
photo: 斉藤新

本展では、寺田コレクションの作品をとおして、現代における聖と俗のありかを探ります。
展示は、まず清らかで敬虔な心を表現した舟越保武、松生歩らの作品からはじまります。そこでは、精神の清らかさが、静謐ながらも作者の信条告白ともいえる重みをもって表現されています。聖なるものというと、人はまず、こうした清らかさ、またそれに向かう人間の敬虔な心をやはり連想するでしょう。とはいえ、現代における信仰の置かれた状況は単純ではありません。加藤清美の作品には、信仰をめぐる一種の葛藤、聖と俗の間を揺れ動く人間の実存が示されています。

聖と俗に引き裂かれた人間の姿をより根源的、象徴的に表現しているのは、内田あぐり、磯見輝夫らの作品です。内田は「堕落と浄化をくり返しながら、人が生きていく道のり」[*1]を描きたい、と自ら語っています。磯見は、プリミティブな混沌のうちに人間を捉え、その生の全体性に迫ろうとしています。

小嶋悠司も、人間の生の全体性に対する同様の視点を感じさせますが、イメージは、現世に生きる俗なる人間の赤裸々な姿に照準を合わせています。「穢土」と題された一点には、醜悪で悲惨な現世の生、その底にひそむ非理性的な力が発動しています。しかし画面には、なぜか聖性が漂います。汚穢にみちた人間の姿が、逆説的に聖性を帯びています。それは、懊悩する人間の姿が、苦しみを受け入れる聖者のあり方、一種の宗教的な自己犠牲のイメージに通じるからでしょうか。

白髪一雄は、天井から吊ったロープにつかまり、足を使って描きます。不安定な体勢での格闘から生まれるその表現は、一見、俗なる情念の直接的な発露であるかのようです。しかし、狭い個の表現を超えた浄化された光がそこに差しているのを見逃してはならないでしょう。仏教に帰依する白髪は、自らの制作行為を仏の道に通じる精神的な営みと考えていたといいます。

現代人にとっての聖性を考えるうえで、エロティックなイメージ、またアイドルやキャラクターなどのマスイメージは極めて重要です。私たちの多くがこうした「俗」なるイメージに、聖なるものを見出していると思われるからです。金子國義、四谷シモン、村上隆らの作品はそれぞれ異なる表現ながら、いずれも、聖と俗の流動と反転という今日的なテーマに対する優れたアプローチとなっています。

奥山民枝《恬》油彩,キャンバス 24.0 x 37.8cm,1986 photo: 早川宏一

奥山民枝
《恬》
油彩,キャンバス 24.0 x 37.8cm,1986
photo: 早川宏一

展示の後半は、再び清らかさ、高貴さをたたえた神秘の気配が濃厚となります。
奥山民枝は、人間と宇宙を貫く生命の壮大かつ特異なビジョンを描出します。そこでは人間と植物、人間と山岳との区別すら飛び越えられてしまいます。時に畏怖を抱かせる崇高なイメージは、有限なる人間存在の卑小さと、高められ、浄化された境地を同時に視覚化しているといってよいでしょう。
長谷川潔の作品は、反対に何の変哲もないモチーフである女性像を描いていますが、その表現はしかしきわめて純化された聖性をたたえています。白昼に一本の樹木が燦然と光を放ち語りかけてきたという自身の神秘体験に触れ、「波長を合わせることによって聞こえてくる万物の声」[*2]がある、と述べた長谷川は、目に見える日常的な、いわば俗なるモチーフを通して自然の哲理を把握し、そこに聖性の顕示を見ていたといえます。

展示を締めくくるのは、難波田龍起、村上友晴らの抽象絵画です。抽象絵画は純粋な造形性や構成の探求とみなされますが、他方で、超越的な実在や霊的な力といった「見えないもの」を表現したいという願望にも深く根ざしています。じっさい、難波田龍起の作品には、可視的な現実を超えた究極の真理や自然の奥義、生命の根源などへのやみがたい憧憬が濃厚に見てとれます。また、キリスト教の信仰をもつ村上友晴の制作行為は、神に捧げる労働としての色彩を帯びつつ、気の遠くなるような規則的反復によっています。画面は、黒、つまり闇を基調としていますが、むしろ闇のなかに「光」が見えた瞬間こそが、そこには刻印されているのです。
抽象絵画でも、コラージュやオブジェで名高い大竹伸朗の場合、事情はやや異なります。彼はいわばモノ狂いの作家であり、具体的なモノと出会い、感動することがその制作の起点となっています。そしてゴミやがらくたが大竹によって聖別されて、光輝につつまれるさまは多くの人を魅了しています。「夢」と題された平面シリーズにおいても、このことは変わりません。それは自身の夢にもとづくシリーズですが、夢で出会ったモノが、彼にとっては内的なビジョンではなく、現実のモノ、オブジェと同列のモチーフとなります。画面はモノがもつざわめき、モノによる語りかけが生々しく息づく空間となって、やはり聖別されたモノの光輝で満たされるのです。大竹は難波田や村上とは逆の方向から聖性に達したといってよいでしょう。
これらの抽象絵画に、今日における「聖なるもの」の最も深い表現を見ることは、あながち不当ではありません。

[*1]棚橋弘「日本画の新たな人体表現を追求する」,『東京新聞』1993年10月9日(夕刊)
[*2]長谷川潔『白昼に神を視る』, 白水社, 1982年, p. 11


ギャラリー展示風景 ギャラリー展示風景
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展示風景

■インフォメーション

会場:ギャラリー3&4(東京オペラシティ アートギャラリー 4F)
期間:2013.10.11[金]─ 12.23[月・祝]
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)

休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
収蔵品展入場料:200円
(企画展「五線譜に描いた夢 ─ 日本近代音楽の150年」のチケットでもご覧いただけます)

主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団
協賛:NTT都市開発株式会社

お問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)