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インタビュー ウンスク・チン、自らを語る

インタビュー・動画

ウンスク・チン、自らを語る
Unsuk Chin on Unsuk Chin

出版社Boosey & Hawkesのサイトに掲載された、ベルリンの自宅にて自らを語るインタビュー動画「Unsuk Chin on Unsuk Chin」からの日本語訳。

曲を作る過程では、もちろん常に知的水準の高いものを作曲したいという野望を抱いています。しかし同時に、音楽は聴衆の共感を得るものでなくてはなりません。

楽器というものに初めて出会ったのは、2歳のときでした。父は長老派教会の牧師で、教会で使うためにアップライトピアノを買ったのです。初めて見た瞬間からピアノに引きつけられ、大人になったらピアニストになりたいと夢見ました。

8歳のときには、教会の結婚式でピアノを弾いていました。ウェディングマーチや小曲を弾いては、お小遣いをもらっていました。
1960年代の韓国は世界でもっとも貧しい国の一つで、生活は本当に大変でした。私はピアノを習いたかったのですが両親はお金がなくて援助できず、それなら独習しようと決意しました。日々の暮らしはとても厳しく、生きていくだけで精いっぱいだったのです。
中学校に進んだのは、12歳か13歳のときだったと思います。音楽室にたくさんのレコードがあって、そこで初めて、いろいろな種類の音楽のレコードに接しました。毎日音楽室に入りびたって、夜遅くまで音楽を聴いていました。ありとあらゆる音楽を……ブラームス、チャイコフスキー、ベートーヴェン、モーツァルト、それにストラヴィンスキー。あの頃の私にはとても現代的な音楽でしたね。ご自身も作曲家だった音楽の先生に、「きみは単なるピアニストではなく作曲家になることを考えてみたらどうか、ただピアノを弾くより作曲の方がずっといいから」と言われました。

リゲティの音楽を聴いたのは、韓国の大学にいた頃のことです。手紙を書いたら、返事が来ました。「よろしい、あなたのスコアを見ました。学生として受け入れましょう」と。初めて会ったのは、ハンブルクのリゲティの自宅です。私の作品を見たリゲティは「見事に書けているけれど、あなたの音楽はまさにダルムシュタットの前衛音楽の真似だ。自分を見つけなければならない」と言いました。私にはまったく理解できませんでした。リゲティの言葉の意味がわかるまでには、長い時間がかかりました。でも、彼は正しかったのです。

《Acrostic-Wordplay(折句-言葉の遊戯)》は、私が国際的に知られるようになった重要な作品です。作曲したのは1991年で、未完の形でアムステルダムで初演されました。2年後、突然「この曲を完成させなければ」という思いに駆られたのです。ほぼ書き終えた頃、イギリスの作曲家から手紙が来ました。当時の私は知らなかったのですが、ジョージ・ベンジャミンです。彼が、この曲をロンドンで演奏することに強い興味をもってくれました。素晴らしい演奏でした。そして翌日、主要新聞4紙にコンサート評が出て、それがすべて良い評だったのです。本当に幸せでした。このコンサートと良い新聞評のおかげで、私はブージー&ホークスと契約したというわけです。

ベルリンに移ったのは1988年です。東西再統一前で、今とはずいぶん雰囲気が違いました。ずっと緊迫していましたね。最初はベルリンが全然好きになれませんでした。でもベルリンに長年住んでいた師匠に薦められたのです。「ベルリンはドイツ中で最高の都市だ。あそこではアーティストとしても作曲家としても本当に自由に生きられる。コンサートや展覧会がたくさん開かれていて、アートも音楽もとても盛んだ」と。私はベルリンに来て、ベルリン工科大学の電子音楽スタジオで活動を始めました。それは、完全な別世界でした。

電子音楽を経験するまで、私はいつも音楽をモティーフで、ある意味とても古典的な方法で考えていました。でもこの後は、より抽象的な方法で考え、音色をより自由に思い描けるようになりました。

オペラを書きたいと思いたち、『不思議の国のアリス』をオペラ化するととてもいいのではと考えました。それまでの私の経験のすべてを注ぎ込んで一つにまとめあげた大作を書きたかったのです。現代オペラとミュージカルの中間のような作品を書こうと決めました。

私が書きたかったのは、高度に知的でいながら、同時にとてもシンプルで聴衆に直接訴えかけることができるオペラです。

ヴァイオリン協奏曲に取りかかったとき、とても演奏が難しいものを書きましたが、私にとってはそれも一つの手法にすぎず、難しいはずがありませんでした。ヴィヴィアン・ハグナー(訳注:初演のソリスト)が私の家に来て、私が書いたものをそのまま弾いてくれました。何も問題も、何の指摘もなく、完璧に。だから私は「よし、全曲こんな感じで書けばいい」と思ったのです。その時点では、どれほど難しい曲なのか認識していなかったのです。

優れたソリストを、彼らが可能性の限界を超えるのを見るのがとても好きです。それによって生まれる極限の音楽のありように魅了されます。だからこそ、ソロ楽器のための協奏曲を書きたいと思うのですね。

私はあらゆる音楽にたいへん興味を引かれます。いろいろな国の伝統音楽、もちろん韓国の伝統音楽にも。中国の笙奏者ウー・ウェイに出会ったときは、大いに刺激を受けて笙のための作品を書きました。

私にとっては、ヨーロッパの楽器かアジアの楽器かというような区別はありません。私にとって、どんな楽器にも音楽の形式にも国境はないのです。音楽はただ音楽であり、楽器は楽器です。

私の生い立ちは、作曲家を志す上で大きな自由を与えてくれました。たとえば、ドイツやオーストリアの作曲家にはゆるがせにできない伝統があり、その伝統から逃れるのはとても難しいことです。私たちには、そういう伝統がありません。ごく新しいのです。教義とか信条とか歴史とか、そういうものから私たちは自由でいられます。

私の人生は大きく変化しました。実際、60年代・70年代のソウル近郊での子供時代のことなど思い出せないくらいです。今とはまったく違う暮らし、まったく違う人間でした。そう、すごいことですね。

(中村ひろ子 訳)

出典:
http://www.boosey.com/podcast/Unsuk-Chin-on-Unsuk-Chin/100716

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