2011年度 武満徹作曲賞本選演奏会 Toru Takemitsu Composition Award 2011 Concert for Final Selection 2011年5月29日[日]15:00 コンサートホール


2012/1/20 update
2011年度武満徹作曲賞 受賞者決定!! →詳細

2012/1/20 update
1/20[金]18:00開演「2011年度武満徹作曲賞本選演奏会」当日券情報

全席自由:¥1,000

●10:00〜16:00 事前電話予約 
03-5353-9999
東京オペラシティチケットセンターにて電話予約いただけます。(チケットはコンサートホール内受付でお受け取りください。)
*チケットぴあ店頭、セブンイレブン、サークルKサンクスでも購入可能です。
(Pコード:147-602)

●17:00〜 (予約無しの)当日券購入
コンサートホール入口前の「当日券売り場」にて。

*「当日券売り場」は混雑が予想されますので、なるべく事前の電話予約をお勧めいたします。

2011年度 武満徹作曲賞本選演奏会
2012年1月20日[金]18:00

当初予定(2011年5月29日[日])からの日程変更に伴い、指揮者が工藤俊幸から山田和樹に変更になりました。その他の出演者、曲目、チケット料金は変更ありません。


審査員:サルヴァトーレ・シャリーノ
指揮:山田和樹
東京フィルハーモニー交響楽団

[ファイナリスト](エントリー順)
ヤン・エリク・ミカルセン(ノルウェー):Parts II
フローラン・モッチ=エティエンヌ(フランス):Flux et reflux
ヒーラ・キム(韓国):NAMOK
ベルント・リヒャルト・ドイチュ(オーストリア):subliminal

全席自由(税込):¥1,000    




*曲目、出演者等は、変更になる場合がございますのでご了承ください。
*就学前のお子様の同伴・入場はご遠慮ください。
*ネットオークション等での営利目的の転売はお断りします。

公演について

シャリーノが選び抜いた4作品による最終審査。若き実力派たちの挑戦を応援してください。

「武満徹作曲賞」は、世界中の若い世代の作曲家に、オーケストラ作品の創作を呼びかける作曲コンクールです。毎年、ただ一人の作曲家が審査員をつとめるというユニークさと、受賞者のその後の活躍などにより、今や世界的に知られている作曲コンクールです。13回目となる2011年の審査員はサルヴァトーレ・シャリーノ。
2010年9月30日に募集を締め切り、世界39カ国から120作品を受理。それらは10月中旬にシャリーノの自宅(イタリア チッタ・ディ・カステッロ)に届けられ、綿密な譜面審査の結果、11月末、4名のファイナリストが決定しました。経歴からもおわかりいただける通り、いずれもすでに作曲家として実績を積み重ねつつある実力派が揃いました。演奏審査の結果に注目が集まります。
なお、譜面審査に際しては、作曲者名等の情報は伏せ、作品タイトルのみ記載されたスコアを使用しました。

ファイナリストのプロフィール

■ ヤン・エリク・ミカルセン(ノルウェー)Jan Erik Mikalsen

[作品名]Parts II

1979年5月6日、クリスティアンスン生まれ。ベルゲンのグリーグアカデミー、コペンハーゲンのデンマーク王立アカデミーで学んだ。ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめ、数々のオーケストラやアンサンブルに委嘱されている。2006年、《グールとムーン》を含む現代ノルウェー管弦楽作品集CD(ノルウェー放送管弦楽団)がリリースされる。また、プレザンス音楽祭(パリ)、ウルティマ現代音楽祭(オスロ)、パブロ・カザルス・フェスティバル(プラド)、カサ・ダ・ムジカ(ポルト)、ニューメキシコ大学、ノルディック・ミュージック・デイズ、モメントゥム・ノルディック・フェスティバル(ノルウェー・モス)で演奏されている。2010年、オスロ歌劇場においてビョーン・ニューマンとノルウェー放送管弦楽団によりクラリネット協奏曲が世界初演され、2011年にはボードー・シンフォニエッタ(ノルウェー)委嘱作品が世界初演予定。
http://www.janerikmikalsen.no/

■ フローラン・モッチ=エティエンヌ(フランス)Florent Motsch-Etienne

[作品名]Flux et reflux

1980年8月1日、パリ生まれ。パリ国立高等音楽院にて学び、修士課程においてフレデリック・デュリユー氏に師事。現在、パリ市立7区音楽院教授。フランス芸術アカデミー(2007年)による受賞の他、ユネスコ国際作曲家会議(IRC)最優秀作品、タクトゥス作曲賞第1位(2008年/ベルギー)を受賞。作品はルクセンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団、リール国立管弦楽団、カーン管弦楽団等で演奏されている。現在、カサ・デ・ヴェラスケス(マドリード)の芸術部門メンバー。

■ ヒーラ・キム(韓国)Heera Kim

[作品名]NAMOK

1976年3月15日、ソウル生まれ。キョンヒ大学で作曲と理論を学び、その後、ケルン音楽大学で作曲をヨーク・ヘラー、電子音楽をハンス・ウルリヒ・フンペルト、カールスルーエ音楽大学で作曲をヴォルフガング・リームの各氏に師事。東西フォーラム賞(2001年/ドイツ)、チューリヒ現代音楽アンサンブル作曲コンクール(2007年/スイス)、BMWムジカ・ヴィヴァ作曲賞(2007年/ドイツ)、ギュンター・ビアラス作曲コンクール(2008年/ドイツ)、ベルリン・オペラ賞(2010年/ドイツ)など国際コンクールにおいて賞を受けた。最近では室内オペラ《Der Unfall》がベルリン・ノイケルナー・オーパーで初演、2010年には新しい室内楽作品がパスカル・ロフェ指揮ソウル・フィルによって初演された。

■ ベルント・リヒャルト・ドイチュ(オーストリア)Bernd Richard Deutsch

[作品名]subliminal

1977年5月15日、メートリンク生まれ、ウィーン在住。1995年〜2003年、ウィーン国立音楽大学で作曲をエーリヒ・ウルバナー、ディーター・カウフマン、修士課程でマヌエル・ヒダルゴ、ボグスワフ・シェッフェルの各氏に師事。ハノーファー現代音楽ビエンナーレ作曲コンクール第2位(1997)をはじめ、エルンスト・クルシェネク賞(2002)などを受賞。作品はシュトゥットガルト・エクラ音楽祭、ヘーアゲンゲ・フェスティバル(ウィーン)、クラングシュプーレン(シュヴァッツ)、ウィーン・モデルンで演奏されている。オーストリア放送協会、シュトゥットガルト放送交響楽団、シュトゥットガルト州立歌劇場から委嘱を受けている。また、アルディッティ弦楽四重奏団、マリノ・フォルメンティ、ルーペルト・フーバー、ヨハネス・カリツケ、オットー・カッツァマイアー、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団などによって演奏されている。
http://www.berndrdeutsch.com/

審査員:サルヴァトーレ・シャリーノのコメント

「譜面審査を終えて」

■ Parts II

かなり濃密な音のかたまりのコントラストを土台とした、ポスト"スペクトル音楽"的な傾向の強いスコア。次々と変形されてゆく。書法は点描画風、パネル画風。
オーケストラの使い方はよく考え抜かれたもので、伝統的だが、弦楽器のいくつかのペアを微分音レベルでずらして調弦するなど、洗練された技巧が使われている。
作品は続けて奏される4つの部分に分かれる。その中で最も短い最後の部分では遠近法的な表現がとられ、弦楽三重奏が遠景となってステージ外の「遠く」から演奏する。

■ Flux et reflux

切れ目なしに奏される3つの部分に分かれる。密な書法。作曲の仕事ぶりは、クラスターの艶やかな厚みに限らず、さまざまな種類のヴィブラートを用いた音の内部にまで及んでいる。
形式面では次々と変化を見せ、音楽は絶え間なく濃密になっていき、時に苦悩に満ちる。

■ NAMOK

シンプルな要素で作られた音楽。7つの部分からなる単一楽章曲で、各部分にはアルファベットが振られている。導入部に続いて、互いに対照をなす部分が交互にやって来る。セクションCでは規則的なパルスが聴かれ、一方、セクションDはなめらかな線で構成されている。セクションEは作品中で唯一、不規則なパルスによって構成されており、そのパルスが次第に積み重ねられて一種のリズムの飽和状態に達する。打楽器のみで奏される次のセクションは、低音域で暗く陰る結びの部分に入る前の、経過部的な役割を果たしている。

■ subliminal

切れ目なしに奏される4つの部分からなる。思慮深い書法。作品はしばしば均質な大小のブロックによって、あるいはシンプルな要素によって構成されている。
音楽は、セクションごとに段階的な変形を示しながら少しずつ、あるいはセクションごとに軽いコントラストを見せながら、進んでゆく。

本コンクールに寄せられた多数の作品を通じて、現在の私たちが置かれている状況を、その複雑さも含めて、また(どの時代の"現代"もそうであるように)現代という時代によって作り出される様々な問題も含めて、見渡すことができる。

選抜作業を成し遂げるに際しては、コンセプトという点では十分に際立っているのに、その実現の仕方において非実践的な、それゆえにコンサートで演奏するには適さないいくつかの作品を除外しなければならなかった。

多くのスコアは、本質的にはレトリックつまり修辞学的なものに過ぎない管弦楽の極度の活力を追求しているのに、それによってむしろ偽りの動きや恐ろしく空虚な空洞を手に入れている。それは美学的な観点から言うなら冗長な素朴さ、無邪気さというものであって、人を仰天させることはできても、ほとんど逆効果にしかならない。

全体としては、音楽的な能力のある程度の向上と情報の広がりを見ることができるように思える。それには今日の作曲家はテクノロジーを自由に駆使できるということが大きく作用している。だがそれは重大な不都合をももたらす。すなわち、いろいろな要素を組み合わせて作品を作ることが簡単にできるということが、個々の作曲家の創造力の深化や想像力という面に対しては不利に働くのである。そこから、自分の手を使って書いたとしても造作なくできるのに、機械を使ってページを埋めようとする傾向が出てくる。

創造力というものは人間と切っても切り離せないものだから(それゆえにその進歩は予測不能でもある)、私は楽観視しているけれども、それでも、ひとりひとりの努力の不足には異議申し立てをしておかなくてはならない。仮に編集作業によって生まれたもの自体が洗練された出来だったとしても、もしそうした"お手本"に対して個人個人が何らかの答えや反応を出さないのであれば、それは、現代という時代の中での伝統がもたらしてくれる、もっと重要な体験が失われ、消えてしまうことにつながる。(かつてムージルが書いた言葉を借りて言わせてもらうが)思い切って「どんな実験でも最後までやり遂げる実験室」になろうではないか。継続性は文化的な突発事件が起こるための前提条件の1つなのだから。

私たちはもっと熱意を持って音楽の指導と訓練に取り組まなければならない。なぜなら芸術家の役割は、新しいもの、夢、ユートピア、未来をつくり出したり見つけ出すことにあるからだ。

もちろん、以上のような私の考察は、このような場ではとても分析できないような社会的テーマにまで関わってくるものだが、私としては気づかないふりをしているわけにもいかないことである。

訳:栗田 洋
*原文(イタリア語)および英語はこちらをご覧ください。
http://www.operacity.jp/en/concert/topics/101208.php#comment

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