
武満徹のエラボレーション 大江健三郎
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私は武満徹さんのお宅からまっすぐ百メートルの場所で暮らしていたことがあります。1963年から68年までの五年間です。武満さんは『アーク第1番』や『地平線のドーリア』そして『ノヴェンバー・ステップス』を作曲されたし、私は最初の子供がこの時期に障害を持って生まれてきたこともあり、『空の怪物アグイー』という短編や、『個人的な体験』そして『万延元年のフットボール』を書きました。
その間に、二度の大雪がありました。雪のなかの武満さんの思い出があざやかです。最初の大雪の夜ふけ、私が何か駅前の薬局に行く用事があって急いでいますと、雪の降りしきるなかを傘をさして歩いて来る人がいました。街燈の光の輪のなかで、傘を握った腕をまっすぐ突き出すと、歌舞伎の「助六」のようにミエを切って、・・・つまり踊りながらやって来るのです。不思議な、それでいて雪の眺めにしっくりしているようでもあって、私は立ちどまって見ていました。
そのうち、もうひとつこちらの街燈の光に照し出されたのは、武満さんでした。私は声をかける勇気がなく、脇の道にそれたのです。それほど完全に、降って来る雪に没入している、という印象だったのでした。
次の年の大雪の夜も、私は雪がやんで月が出てきた真夜中、外に出て行ったのです。息子の光がちょうど歩けるようになっていたので、かれに雪の上を歩かせてやろう、と思ったわけなのです。それと、もうひとつ、思いつきがありました。
私の小説が当時のソヴィエト・ロシアで翻訳され、その印税をルーブルでもらいましたが、ロシア国内で使わねばならない、という条件つきでした。私はソヴィエトを旅行し、アクショーノフやボスネセンスキーといった若い作家、詩人たちと会うこともできましたが、家内には毛皮のコートを土産に買ってくる、と約束して行ったのです。ところが、国営の百貨店に行ってみると、とてもミンクは買えない。熊の毛皮はどうか、ということで、その売り場でもいちばん大きくて荒あらしい感じの熊の毛皮の外套を買いました。
持って帰りましたが、家内は一顧だにあたえない。そこで私は毛皮を大小二つに切って、二頭の熊の着ぐるみを作ったのです。それを験してみよう、と思い立っていたのでした。私と光は勢い込んで、熊の着ぐるみをかぶって雪の道に出かけて行きました。
ところがその夜も、向こうから武満さんが踊りながらやって来られたのです。それに気がついた時、私は武満さんをあまり驚かせても、と心配しました。そこで光とそのあたりの大きい家の門のなかに入って、武満さんをやり過ごしたのです。
今度、その日の手帳の日記を家内に探してもらいましたら、ちゃんとこの出来事が記録されていました。《Kが──つまり、私がということです──光と熊の格好をして雪の中に出て行く。武満さんが帰って来られたので、見つかるのを恐れて、伊原さんのお宅の生垣のかげで死んだふりをしていたそうだ。》
一般には、人間と熊が出会ったならば、死んだふりをするのは人間の方だと思いますが・・・
武満さんが亡くなられた日にも、昼間から暗くなるほど激しく雪が降った──と私は覚えています。あるいはその前の日だった、武満さんが亡くなられた日には雪がつもっていた、ということだったようにも思いますが。
私は『道元和尚廣録』という本を読んでおりました。たまたま、──須(かな)らず雪の曲に和すべし、という一行を見つけて、これを武満さんに話そう、と思ったのです。寺田透さんが、《雪は音をたてない静かなものだが、それと合奏できるようでなくてはならない。》と訳していられました。空から東京の全体が暗くなるほど雪が降り、武満さんが病いに横たわっている。そのことの意味をすべて表現するような構想が、この一行から武満さんに湧くかもしれない、と思ったのです。
いったん発想すると、武満さんはそれをみがきにみがくだろう。そして最初の楽譜が書かれ、武満さんはまたそれをみがいて行って、ほとんど演奏不可能のような微妙さ、複雑さの曲を作りあげるだろう。
ところが、それを見事に演奏する音楽家がいるのだ。さらに若い演奏家たちが新しい技術とコンセプトをみがいて、次つぎに演奏してゆく。武満さんの音楽は、そのようにしてつねに新しくなる。そして武満さんの、世界における位置が古びることはない・・・
そういうことを考えている途中で、いつもFMのクラシック番組を聴いている光が、私の脇に来て、黙って立っていました。あまりうやうやしい様子なので、──どうしたの? と聞くと、──いま、NHKのアナウンサーが、武満徹さんが亡くなられた、と申しました! といったのでした。
私の今日の話のタイトルの、エラボレーションという言葉は、翻訳もあるエドワード・サイードの“Elaborations of Music” からとりました。エラボレーションズ、と複数です。もともとこの単語の発音は、イラボレーションですね。最初のEは、ink, sit, city という場合のイですが、日本式の慣用で言葉のはじめのEはローマ字読みのエをあてます。外国人と話す時は、イラボレーションといった方がわかりやすいかも知れません。それは、いま申しあげたような、幾重にもかさなった、芸術作品をみがきあげる作り方のことだ、と受けとってください。(翻訳はみすず書房刊)
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私は1960年代からの武満さんの作曲の日本での初演は、一、二例をのぞいてすべて聴くことができたと思います。その演奏会のたびごとに、たいていは招待されていながら、武満さんにご挨拶することもなしに、まっすぐ自分の家に帰りました。──きみはどうして、そんなに 素っ跳んで帰っていく? と武満さんにいわれたこともあります。私としては、なんとなくその表現の奥に、あの雪の夜の記憶がひそんでいるような気がしたものでしたが・・・
しかし、私にとって武満さんの演奏会は、そのようにするしかないものであったのです。同じ時代にひとりの優れた人間が生きていて、自分と同じ世界、社会の動きを経験している。そうしながら、全力で仕事をしている。その噂はずっと聞いているし、実際に、その仕事部屋を訪ねもした。そして作曲が完成し、演奏会が行われる。自分はそれを聴くことができた。
その後、自分としては、とても複数の人たちとにこやかに話をしたり、一杯飲んだりさえして時を過ごすことはできない。演奏会は、自分が今夜経験することのはじまりなのだから。
自分の仕事をする場所に跳んで帰りたい、ということでした。跳んで帰ってなにをするか? なにを考えるか?
時によってその仕方は変りましたが、ともかく私はいつの間にか、この武満さんの演奏会の夜に自分がすることを「独座観念(どくざかんねん)」するんだ、と名付けていたのでした。
私はお茶というものをやったことがありません。まあ、お茶に私を誘おうとする文壇の先輩や、ティー・セレモニーの話をしようじゃないか、というような外国人からは遠ざかって生きてきたように思います。なにか、自分が一緒にやってゆけないものを感じとってきたわけです。それでも、お茶について書いた文章を読むことはあり、「一期一会(いちごいちえ)」などという言葉が出て来ると、ごめんこうむることにしていたものです。ところが、ある時この言葉の続きを読んだのです。そして心に引っかかるものがあり、武満さんの演奏会に行った夜自分のすることを、そう名付けたのでした。
武満さんにも話したことがあります。──きみまで、お茶かい? とあの批判をふくんだ、微笑している目で見かえされたことを思い出します。それで、それ以上の説明はしなかったのですが。
さきにいった、すぐそばに住んでいたころで、武満さんは『ノヴェンバー・ステップス』を作曲していられたし、私は『万延元年のフットボール』を書いていました。万延元年というのは、1860年で、桜田門外で井伊直弼がテロに会った年です。私はこの東京の中心でのテロリズムと同じ年に地方で起こった百姓一揆のことを小説に組み込もうとして、奮闘していました。実際には、もっぱら私の四国の森のなかの一揆のことが中心になったのですが、はじめは私なりに井伊直弼のことを勉強していたわけなのです。そしてこの人の文章を読んで、さきのことを胸にきざまれたのでした。
井伊直弼という幕末の政府の高官で、安政の大獄という圧政を敷き、この年の勝海舟たちの咸臨丸によるアメリカ渡航ともつながる、大きい外交政策の転換を行った人物は、また井伊家代々のお茶にも優れた人だった。そこで、最前線の政治家が、小人数のお茶の会を主催するのです。
さて、お茶の会が終わります。《主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れバ、客も露地を出るに、高声に咄さず、靜ニあと見かへり出行バ、亭主は猶更のこと、客の見えざるまでも見送る也、》というのです。そのあと、ひとり茶室に戻って、炉の前に独座する、ひとり座るのだ、と井伊直弼は続けています。
《炉前に独座して、今暫く御咄も有べきニ、もはや何方まで可被参哉。今日一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是一会極意の習なり、此時寂寞として、打語ふものとてハ、釜一口のみニシて、外ニ物なし。》
このことを「独座観念」というらしい、と知って私は武満さんの音楽会に行って来て自分のやることを、この言葉で呼んでいたのです。「独座観念帖」というノートも作っていました。
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井伊直弼ほどの重要な位置に、しかもこの時代に生きた人ですから、お茶の会の準備の過程でも、様ざまなことがあったでしょう。そこから離れても、私はある仕事の準備過程ということに関心をいだいていました。三年間ほど『万延元年のフットボール』の前で足踏みし、自分には準備を有効に積みあげる訓練ができていない、としみじみ考える、ということもあったのです。
そして私は『ノヴェンバー・ステップス』に向けていかに武満さんが、和楽器の研究をはじめ周到に準備されるか、に強い印象をいだいてもいたのでした。若い時、同じ時代、同じ社会の、きわめて近接した側面で生きていたのでもあります。新聞を読んで、話す対象も同じです。読む本も交錯しています。私は武満さんから、当時はカート・ヴォネガット・ジュニアといった、じつに批評的なSF作家のことを、またフィリップ・ロスのすばらしい解説のついたミラン・クンデラの新作のことを教えられたりもしたのでした。
ただひとつのジャンル、武満さんが熱中した映画だけ、私がほとんど無縁であった、ということがあります。滑稽な話ですが、私は本を読めない暗いところに二時間坐っていなければならない、という「條件」が恐しいものに思えて、とくに試写会に誘われても御一緒したことはありません。しかし、武満さんから映画の話を聞くのは好きで、その後すぐ、かれから聞いた監督についての本、たとえばサム・ペキンパーについてのアメリカの雑誌の特集などを読んで、武満さんに面白く思ってもらえそうな部分をつたえたものです。
さて、そうした、作品を書く前の時間でのつきあいがあり、そして武満さんの制作の時間があります。その間も話を聞き、武満さんの方でも私の書き続けている作品に興味を持ってくれました。武満さんが、私の居ない間に『万延元年のフットボール』のためのノートと草稿を見た、と書いていられますが、じつはその時私はひどい二日酔で、書斎の隣りで引っくりかえっていたのでした。
そういう時がたって、ついに演奏会の日が来ます。その夜は、ひとりになってよく考える必要があったのです。まあ、正確な言葉の用法ではありませんが、音楽が鳴った後の、自分のなかの残響とでもいうもののなかで、時には思いつめてあれこれ考えていたのです。
こういうと、あいまいに聞こえると思います。しかし、私自身にとっては、これは武満さんの生涯の創作活動が続く間、ずっとそのようであったのですが、この経験は、具体的な内容のある充実したものでした。それは最初にいった、幾重にも重なっている武満さんのエラボレーションをなぞりかえす、ということでした。
これは、ひとりの小説家の、武満さんの音楽の聴き方、ということですから、音楽の理論や演奏の専門家の書かれたり話されたりすることとは違います。しかし、そのことを話す、というのが今日ここに立ってお話している私の目的ですから、このまま聞いてください。
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私は武満さんの音楽の最初の数小節、あるいは十数小節を聴くたびに、このように感じ、考えてきました。──さあ、ここに武満徹の提出する、取りかかる「問題」がある、ということです。武満さんの音楽は、そのはじまりのわずかな時間の、その音に武満さんそのものがある。武満さんの人間、武満さんの世界がある。「タケミツの声、voix」がある、ということは外国人からもよく聞きます。
「タケミツの声」、それは全体において、つねに変化しながら一貫しています。構造主義でいう、変換する項はつねに変換しながら、全体の構造は保たれる──それが武満さんの人間、ということでしょうが──、そのようなあり方といってもいいかも知れません。それはドビュッシーとかメシアンとか、やはり独特な声、voix を持って登場し、大きく変化しながら生涯を一貫した音楽家と同じで、かれらと武満さんが比較されるのには、表層の似かよった側面とはまた別に、構造的なものがあるのだと思います。
とくにドビュッシーもメシアンも、武満徹同様、エラボレーションの人なのです。とくに武満さんは、自分がはじめにつかまえたとっかかりを何度も何度もみがきをかけます。そのようにみがきあげることで、複雑化し多層化します。同時に、多様なままの断乎とした単純化も行ないます。そのようなエラボレーションの過程が、つまり作曲することであった人なんです。「タケミツの声」はそのようにして練りあげられているのです。したがって、武満徹をよく演奏しようとすれば、演奏家たちもエラボレーションを重ねねばなりません。指揮者もふくめて、同じ演奏家のCDの録音をくらべてみると、かれらのエラボレーションがわかります。そしてこれは二十世紀の演奏家の特質として、サイードがブレンデルやグレン・グールドについていっていることと同じです。
その「タケミツの声」を、言葉で定義してみると、どういうことになるだろうか? それを──つまり、実体はよく感じとられ受けとめられるものを──自分として定義しようとして私のたどりついたところは、こういうものでした。むしろ自分が感じとり受けとめているものを、あらためて自分で読みとっていって、このように理解した、ということです。
武満さんは、まず自分の「問題」を提出する、というのが私の定義なんです。そして武満さんはその「問題」に立ち向かう、それと格闘する。その闘いのなかに、準備過程でかれが生き、経験し、考え続けていたもののすべてが反映している。かれの生きること、経験すること、考える態度、そのスタイルまで、すべてがそこにある。
その上で、武満さんの音楽は、つねに当の「問題」をとき、解答を示す。その態度は一様じゃないけれども、武満さんがこのように闘った、そして闘った結果は、みがきあげられエラボレートされてここにある。私はそれに面と向かう。・・・それがつねに変らぬ、私の、武満さんの音楽の聴き方でした。
皆さん、芸術家なら自分の作品をエラボレートするのは当り前だろう、といわれるかもしれません。しかし、この国ではそうじゃないんです。エラボレートする作家は──文学でいうならば──じつにまれで、たとえば安部公房のように特別な人なんです。かれの小説の初出と、全集におさめてあるものを比較すればあきらかですが、安部さんはいったん発表したものも、なおみがきあげずにはいられない作家でした。
三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですが、あれはエラボレートという泥くさい人間的な努力の過程をつうじて、なしとげられた「美しい文章」ではないのです。三島さんは、いわばマニエリスム的な操作で作ったものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がって自分に対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果なんです。若い作家でそれを真似ている人たちがいますから、ここでそう批判しておきたいと思います。
武満さんの全作品を、できるかぎり演奏家の違うものも集めて、とおして何度も何度も聴く、それを一年間、自分の生活の基幹にすえる、ということを私は考えました。光も一日中、音楽を聴いて生きていますが、かれの聴くものは音楽史の全般にわたっています。そこで私はプリンストン大学に職をえて、一年間、あすこのカーネギー・クリークを見おろすアパートで武満さんのCDを聴いて暮らしました。
そのようにして全作品を聴いてみますと、武満さんの作品のスタイルはじつに多様なものです。
しかし、私はつねに、ひとつの「問題」が提示され、解かれる過程というものを経験したと思います。そしてそれを小説に近づけていえば、これはひとつの「物語」が語られる、ということなんです。ヨーロッパ文学の原型のひとつに「聖なる杯の探究の物語」があります。武満さんの音楽は、つねにかれとしての「聖なる杯の探究の物語」だった、と私は考えています。
ここで「聖なる杯の探究の物語」の具体例をお示しする時間はありません。フランス中世のクレチアン・ド・トロアからワグナーの『パルジファル』そして映画のインディ・ジョーンズまで、皆さんにあらためてその話をする必要も、じつはないでしょう。人間はつねに、生命の再生、本当の生命のよみがえりをもとめて、その秘密を探しだそうと旅をしてきた、その物語のことですから。
武満徹さんの、この特別な聖杯探究者としての生産的な生涯は終りました。いま私は、かれと同時代に生きた自分の人生を、やはり終り近いところで──むしろ、ほとんど終ったところで──振り返ります。そうしてみると、さきにいった「独座観念」を行おうとして、自分の場所にひとり坐っている、ということに気がつくのです。
私はまず武満さんの音楽のCDをかけます。それが作曲される前、作曲されていた間の、二十世紀年表というようなものも読みます。そしてしだいに、あれがどのような時期だったか、自分としてはどのような “小説家としての闘い” をしていたか、ということを思い出してゆきます。そのときに書いた小説も、脇においてあるわけです。そのようにして一晩すごすと、夜明け方には、さきに引いた、《今日一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し……》というところにいたります。《此時寂寞として、打語ふものとてハ、》まあ、武満さんのお仕事と、自分自身の《外に物なし》ということになるのです。これからの自分の残り時間の間、私はこの社会、世界がどう動くか、ということを見たり考えたりしつづけると思います。またいくらかの仕事もすると思います。万延元年の井伊直弼は、こういう深夜の静かな「独座観念」を続けた後、そしてかれの残した文章は優れたものだと思いますが、ある春のはじめの雪の朝、テロリストたちに首を切り落とされてしまったのです。
私のように平凡な人生をおくる者にはそれほどの大事件は起るはずはありませんが、あまりのんびりかまえているわけにもゆきません。そこでこのような「独座観念」を繰り返すことで、自分の生きた時代、社会、世界を理解し、自分の仕事を理解し、自分の人生を理解して、宇宙を見あげながら終る、ということになると思います。
その時、やはり自分の前にすえてある唯一のもの、その《外に物なし》として、武満徹というテキストがあると思います。あらためて、この人と同時代に生きたということが、いかに搖るがしがたいか、ということが身にしみてわかります。皆さんに、理解していただけるのではないか、とも思うのです。
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私がこの講演のレジュメとして書いたものを見ていただければわかりますが、私は、自作を語ることの本当にたくみだった武満さんの、演奏会やCDの「プログラム・ノーツ」から引用することで、それに支えられながら語ってゆきたい、と考えています。そこには武満さんの主要なテーマ群、つまりテマティックが大きいリストをなしているからです。
まずこれは、武満さんの『マージナリア』という作品へのプログラム・ノートです。小説家としての私も、マージナルなもの、つまり私の言葉でなら「周縁」ということについて、ある時期から集中的に考え始めました。それは私の終生のテマティックの根本に坐るものともなりました。私にとっての、そのひとつの転機と、ほぼ同じころの、武満さんの自作についての言葉なのです。そこにも私という小説家が、武満さんという同時代の作曲家と、少なくとも私の側からはいかに緊密に連動していたか、おわかりいただけると思います。しかも、私と武満さんとの間には、「周縁」ということの把え方にズレもあったのでした。そういうところが、異分野の芸術家同士として同じ時代を生きることの面白さなのです。
《 Marginalia という題名は、私に強い影響と感銘を齎した、幾つかの同名の詩文、絵画からとられたものです。それらは、E.A.ポオ、瀧口修造、“Ad marginalem” と題されたクレーの油彩の小品、サム・フランシスの絵画のあのめくるめくような白の空間等です。『Marginalia』を着想した時に、この言葉が意味する、余白、あるいは縁(へり)という事柄と同時に、水のイメージが私を強く把えていました。うまく説明できませんが、私は、音と水というものを似たもののように感じています。水という無機質のものを、私たちの心の動きは、それを有機的な生あるもののように感じ、また物理的な波長にすぎぬ音にたいしても、私たちの想念は、そこに美や、神秘や、さまざまな感情を聞きだそうとします。宇宙を無限に循環する水を、私たちは、かりそめの形でしか知りません。それらは仮に雨や湖、河川、そして大洋とよばれています。音楽もまた河や海のようなものです。そして多くの性質の異なる潮流が大洋を波立たせているように、音楽は私たちの生を深め、つねに生を新しい様相として知らしめます。
作曲という行為は、音にかりそめの形をあたえる、縁(ふち)づける、ということでしかないでしょう。が、しかしそれ故に、途絶えることはありません。完成というのは、ひとつの擬態にすぎないと思います。(中略)縁づける、という私の行為の根底にある欲求が水のイメージと marginalia という言葉を結んだのかも知れません。》
ここに marginalia、縁(へり)とともに現われる「水」という言葉が、武満さんにとっていかに重要かは、「水」に関わるタイトルとそのプログラム・ノートをつないでゆくことですぐにあきらかになります。私はいま引用した文章のなかでも、「水」を 宇宙を無限に循環するものとしてとらえ、水につながる大洋が、私たちの生を深め、つねに生を新しい様相として知らしめるものとして音楽そのものにたとえられていることに注意していただきたいと思います。
武満徹が水という言葉をタイトルに用いている、という理由から、武満を日本的な音楽家とする俗説があります。しかし、右の引用を見るだけでも、武満の水の把え方が、日本人のというよりかれ個人のものであり、同時に世界に向けて開かれた、普遍的なものであることはあきらかだろう、と思います。
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さて、私は武満さんの marginalia、縁(へり)というもののとらえ方が確かに「周縁」ということでありながら、当時、おなじ文化論のサークルを作っていた、文化人類学者の山口昌男や私の「周縁」の把え方とははっきり違っていた、ということに注目していただきたいのです。山口昌男の「周縁」を英語にすれば、それは periphery ということだったと思います。
そして私は、武満さんの「周縁」は、それを英語にすれば、circumference という言葉がふさわしかったろうと思います。ひとつ円を描く。その円周、という場合、またある土地を限っての境界線を、という場合も、circumference ですから、武満さんのいまいる土地から出ていって、ある場所を把える、その縁をはっきりきわだたせる、そのイメージは、この言葉により表現されていると思います。circumference としての「周縁」です。
今夜のコンサートには『そして、それが風であることを知った』が演奏されますが、それはエミリー・ディキンソンの “And then I knew 'twas Wind...” からのものです。私は武満さんとディキンソンを結ぶ強い紐(きずな)について、ひとつ研究論文が書かれうると思います。それほど武満さんとディキンソンには本質的な近さがあると思いますが、このディキンソンに、よく知られた詩で、circumference という言葉から始まるものがあるのです。
“Circumference thou Bride of Awe, ”
周縁、おまえは畏敬の心の花嫁
畏敬の心と、それが望み、また望みを受け入れられる花嫁としての circumference、「ある遠方の囲まれた場所」、それら両者の関係をめぐるこの詩は、武満さんの音楽にきわめてふさわしいもののように思われます。
さて、私が circumference としての周縁ということが武満さんにとって重要だと思うこと、それを別の方向から考えてみることにしましょう。縁(へり)という名詞を、いまもいいましたが大切なものとして武満さんが使っている縁(ふち)づけるという動詞としてみると、よりはっきりとしてくるのですが、「夢」と「窓」そして「庭」という三つのテーマが、この縁(ふち)づけるという言葉に深く関係しているのです。そして、いうまでもなくこれらはすべて、武満さんのテーマとして根本的なもの、テマティックです。
そもそも、それがこの武満さんの死後五年を記念する特別企画の主題として選ばれているのですが、いまあらためて皆さんに考えていただきたいのは、「夢窓」というのはどういう意味だろう、ということなんです。プログラムには「夢の記憶・未来への窓」と説明されていますが、私はそれとは少しちがった解釈をしています。
『夢窓 Dream/Window』という、漢字二つと英単語二つを並べたかたちのタイトルは、武満さんの曲のものですね。その意味づけについて、武満さんはそのエッセイ集『遠い呼び声の彼方へ』におさめられた文章で語っています。それが武満さんらしく、人をくったユーモアとじつに切実な芸術観をつないだ文章なんです。武満さんは小柄な、せんさいな身体つきの人でした。しかし肝が坐っている人、いったんこう思うと決して搖るがない、いわばよくできたミニアチュアの豪傑のようなところがありました。そのような文章、並の胆力の人間には決して書けないものなんです。
《題名の夢窓(Dream/Window)は、室町期の禅僧、夢窓(むそう)疎石(1275-1351)の国師号である夢窓に拠っている。》
つまり、夢窓国師の名前の、夢と窓を切り離して対置したものだが、というんです。その対置関係を説明するために二つの英単語が、はっきり区別しながら並べてあるんです。つまり、それはじつは夢窓国師とはいかなる関係もないわけで、まったくシュールな発想だと思います。しかも、文字としてもイメージとしても、夢と窓を対置すると美しい。そこが武満さんらしい発想なんです。その上で、武満さんは、夢窓国師が名高い庭の作り手であったことに注意をうながします。
《夢窓国師の作庭になる庭園には、西芳寺をはじめとして名園が多い。私の音楽はそうした日本の古い庭園から多くの影響を受けている。ピアノとオーケストラのための『弧(アーク)』や、雅楽の『秋庭歌一具』等は、かなり具体的な庭のイメージに基いて作曲された。》
武満さんはこういいます。実際、武満さんに庭を主題にした作曲が多いことは確かです。しかし、ここになぜ夢窓国師の庭が出てくるか? その哲学的な、あるいは歴史的なもともとの由来をたずねることはできない。ところが、そこにこれは京都信用金庫の委嘱で、京都を主題とする曲を作れ、という求めから、好きな京都の庭に想をとったのだ、と武満さんはあっさり種明かしをします。しかし、その上での意味づけの発展させ方がすごいのです。
《この曲で、私は京都をどのように描こうと考えたか? たんに夢窓の苔寺の音楽では、この複雑な都市空間のごく一部分を把えたにすぎない。京都という土地柄は、進取の気運と頑な保守性が共存して、東京とはまた違ったダイナミズムを秘めているように思われる。静けさの底に変化の歯車が休むことなく動いている。私の京都に対するイメージの根幹は、こうした相反するものの相剋であり、この時、夢窓という名は、これを表わすまたとない象徴に思えた。夢と窓は、内と外へ向う二つの相反するダイナミズムの暗喩として用いられている。このインテリア、エクステリアを同時に響かせることが、曲の主眼である。》
ここまでくると、これは武満さんの音楽についての根本的な思想の、正確な言葉による、つまりエラボレートされた表現です。そしてここに出発して、まぎれもない武満さんの独自の音楽が達成されていることも、作品『夢窓 Dream/Window』を聞く時、私たちの納得するところです。この文章には、武満徹の音楽的なイマジネーションの働き方の秘密が、豊かにひそめられているように思います。そこから幾重にもエラボレーションが重ねられて、あの名作が完成したのです。
私は『夢窓 Dream/Window』の制作過程での武満さんと京都の銀行家たちとの関係に、サイードがもうひとついっている、現代の音楽家のエラボレーションの徹底が、社会的に──政治的にも──音楽家に独自の自由をあたえる、ということへの確かな例証を見出すものです。
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武満さんの circumference としての「周縁」を考える時、私がいま思い出すのは、ワルター・ベンヤミンの思想です。ベンヤミンは、二つの世界を縁(ふち)どる、区切る「敷居」ということを重視しました。最近翻訳された『敷居学─ベンヤミン神話のパッサージュ』という本の著者ヴィンフリート・メニングハウスは、たまたま私がベルリン自由大学で教えていた間の若い同僚でした。私はかれの話を聞きながら、しばしば武満さんのことを思ったものです。
武満徹における縁(ふち)づけること、その縁(へり)の向こうへ越えること、窓の向こうへ入って行くことを、私はメニングハウスのいう、ベンヤミンの《敷居を越えるシュールレアリスム的な経験》にひきつけて考えなおすのです。武満さんも、瀧口修造をつうじてシュールレアリスムに深くなじんだ人でした。意識の窓の縁(へり)を越えて「夢」の「庭」に入って行くのが、武満さんの行動法です。
ベンヤミンも同じようにして、「意識」の敷居を越えて「夢」の「庭」に入って行く。一瞬に現われた「夢」の静止画のなかを歩いて行くのです。かれの『パサージュ論』の遺稿メモを、三島憲一訳で引用してみましょう。
《過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく、イメージのなかでこそ、かつてあったものは、この今と閃光のごとく一瞬にであい、ひとつの状況(コンステラツィオーン)を作り上げるのである。言い替えれば、イメージは静止状態の弁証法である。》
ここで状況と訳されているドイツ語は、星座という意味の言葉でもありますね。ベンヤミンにとってやはり大切な概念である星座は、つまり宇宙について、また歴史について、人間の作りあげる静止モデルのことです。それを見るために、現実から敷居をまたぐのです。「夢」の「庭」に入って行くのです。
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話が厄介になってきました。も一度、私の思い出に帰りたいと思います。私は武満さんの演奏会に行くと、跳ぶようにして帰って来て、自分の部屋で、今経験してきたことをもう一度経験しなおすようにしてきました。そういう時の私の習慣として、結局はもう夜明けになっていましたが、感じたり考えたりしたことを文章に書くことにしたのです。
いつか武満さんに読んでもらう、というつもりで、しっかりした装本のノートに書き続けてきました。そのノートの一節を読みたいと思います。これはまだ私が、いまのべたベンヤミンの仕事を注意深く読んだことはなかったころ、1975年の9月1日深夜という日付で書いているものです。それは、ピーター・ゼルキンたちの「タッシ」と小澤征爾指揮、新日本フィルハーモニーの演奏で、『カトレーン』が初演された日に私の感じ、かつ考えたことです。
《武満徹の音楽が、しばしば、進行の中絶において深く印象をきざむのは、どういう意味を持つだろうか?
それは武満の言葉、世界の音の河を取り出す、から展開するなら、その河の流れを透明な強化ガラスでせきとめて、その断面図に立ちあわせられるような経験ではないか? 音楽の進行のなかに、静止の状態が浮かびあがる。それも、音が消えさって、無が現われるというのではない。映画でいうと、フェイドアウトするのとはちがう。同じ比喩でいえば、映画の進行のなかに、スチール写真が挿入されるかのようだ。一瞬の静止の時、そこに固定された光景が、燃え上るように激しい磁気をおびて拡大されるのを、われわれの「耳の眼」は見るではないか。しかも武満徹の音楽において、この静止の時は、幾度も現われる。つねに新しく、決して繰り返しでなく・・・そして私ら聴衆は、しだいにその「静止による全面展開」によって説得されている。
なにに向けて? これが武満の、世界、宇宙のメタファー、イメージの全体像だという、理解に向けて。それは、大きい危機の瞬間に、鋭利な刃物で切りとられた、世界、宇宙の断面図だ。新鮮なハムのスライス面のようだ。それはまた、晴れあがって澄んだ夜の空を見上げて、そこに、当の緯度、経度の一地点から見える星々の全体が現われているのを、見るのに似ている。星空のすべてが、永遠に進行する流れの一瞬の断面図として受けとめられる。武満の音楽の静止の一瞬には、宇宙の流れの切断された全体像が見てとられるようではないか?
また、武満の音楽をつうじて、かれの「庭」のイメージを「耳の眼」によって聴きとる、見るということをする時、地上にあきらかにととのえられた世界・宇宙モデルを眺めているという思いが、私らをとらえないだろうか? その世界モデルのなかを、私らは自由に歩くことができる・・・
さらに武満の「夢」という言葉。かれは意識の窓の向こうに新しい光景を見るけれど、その「夢」の光景はまさに庭のように、ある広がりを、しっかりした縁(へり)が取り囲んだ場所であろう。武満にとっての周縁は、まわりがあいまいな溶け込み方をする漠然たる広がりではなく、はっきり囲まれた場所 circumference なのだから。
その庭に現われる光景は静止して、武満をめぐっている。そこを歩きながら、武満は「夢」を見続けるのだろう。》
この文章は、いま読みかえしてみますと、私にも悪質のロマンティシズムと感じられるのですが、しかしずっと私はそのように、武満徹の音楽の、ある断絶の一瞬に宙吊りされて、彼の世界・宇宙の静止モデルを、「庭」の眺め、「夢」の構造図を見てきたように思います。それを「耳の眼」によって受けとめてきたのです。
ベンヤミンの考え方をもう一度そこにみちびき込めば、このようなものの見方は、「危機」にある人間の世界認識、宇宙認識です。のんびりした日常生活において、こういう眼は開かれません。私は自分の深い「危機」に立って、武満徹の一瞬の世界認識を受けとめていたと思います。
そして、私は自分が文学でやりたいとねがっているまさにそのことを、武満さんがはるか前方でやっている、そして実際に私の小説を受けとめてそこに生かしてくださってもいると、たとえば『雨の樹(レイン・ツリー)』や『雨の樹素描』を聴いては感じとっていたのでした。それが、私にとっての小説の「希望」の根拠であったのでした。
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私が今日の話の結びとして引用したい、武満さんのプログラム・ノートがあります。それはこういうものです。
《この作品は特定の宗教のために書かれたものではないが、私の想像──厳密には私の聴覚的な創造世界──のうえでのひとりの神に捧げられている。
Chant と題したのはそのためであり、私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。》
私はこの武満さんの言葉を読むたびに、自分も特定の宗教を持つ者ではありませんが、新約の「ロマ書」の次の一節を思いだすのです。《斯のごとく御霊も我らの弱(よわ)きを助けたまふ。我らは如何に祈るべきかを知らざれども御霊みづから言ひ難き歎きもて執成し給ふ。》
この「ロマ書」の一節について、キリスト教の聖職者でもある文学理論家ノースロップ・フライが解説している文章があります。それがのべていることとして、パウロによれば、人間から神への典型的なメッセージは祈りだ、というのです。ところがそれは人間誰しも持つ自己に根ざしたエゴに縛られた希願、リクエストのせいで、歪んでいる。あいまいになっている。しかしそれが聖霊によって、特別な配慮をもとめてのものに、つまり救いをあたえてもらいたい、というものへと明確(フォーミュレイト)にされる。
そしてフライはいいます。この祈りの考え方(コンセプト)を、文学の、想像的に作り出された表現に結びつけることは難しくない。なぜなら、文学の表現は、意識された意図から独立してかたちをとることがしばしばであるから。
音楽においては、なおさらでしょう。私は武満さんの表現こそ、そのエラボレーションの繰り返しによって、かれの意識した意図から自由になって、根本のところでの祈りの表現になっている、と信じるからです。そのようにして武満さんは、私どもの祈りを──それはもちろん武満さん自身の祈りでもありますが──、ひとりの神にとりなしてつたえているのだ、と思います。
武満さんが、このコンサートホールの基本の精神とされた言葉、《祈り、希望、平和》というのは、そういう意味のものだったでしょう。武満徹は、「ロマ書」のとおりにいえば、みずから《言ひ難き歎きもて執成し》てくださっているのだと、私は思います。
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東京オペラシティ「夢窓 Dream/Window」 2001.2.22
(c) 大江健三郎
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