プロジェクトN

project N 66 村上早 MURAKAMI Saki 2016.12.10[土]─ 2017.3.12[日]
《かくす》銅版画 118.0×150.0 cm 2016
《かくす》
銅版画 
118.0×150.0 cm
2016
村上早 精神の文字、あるいは存在の痛み

村上の銅版画作品を特徴づけるシンプルで素朴な線は、描く対象を観察してその個別的な相をとらえて描写するのではなく、対象をある種一般的な相のもとに想起し、それを精神的な負荷のかかった記号、いわば精神の文字として刻印します。その線は、習作や下描きなしに、思い浮かぶとともに直接、なかば無造作に筆とポスターカラーで版面に描かれ、ときにぎこちなく武骨でさえあります。そこには、フォルムを彫琢するとか、そぎ落とすとか、そういう発想が入り込む余地はありません。村上自身、表面的なフォルムの充実よりも、描くことの原初性、自発的な直接性を大切にしているとまずはいえるでしょう。

村上の制作では、幼少時の記憶が大きな役割を果たしています。子どもや動物、飛翔と落下、夢や眠りのモチーフが登場する画面は、身体的苦痛や喪失感を漂わせながら、地震や事故などの災厄、生と死の物語を暗示します。幼少時に生死をわける手術を経験し、その遠い記憶から、たえず身体的、精神的な欠落感を抱き、またあらゆる物事を恐れ、火事や事故、ペットや身近な人の死の記憶に苛まれてきたという村上にとって、銅版に「傷をつける」という行為が、とりわけ重要な意味を持っています。版に窪み(傷)を刻み、そこにインクを詰めてイメージを刷りとることは、生き物の皮膚に傷をつければ血が出て、そこにガーゼを当てれば傷の形に血がつくのと同じことだといいます。あるいは、版に傷をつけて制作することは、心の傷を拾い集めることだともいいます。村上の作品に、ときに自虐と加虐の交錯するきわどさがかいま見えるのは、こうしたアナロジー(類比)からすれば、むしろ当然なのでしょう。いずれにせよ、ある種の生きづらさを抱えて成長した村上は、版画というメディアに出会って初めて、自らのトラウマ的な記憶を有効に作品へと昇華させる術を得たといいます。


《ふるえ》銅版画 114.0×167.0 cm 2015 photo: HAYAKAWA Koichi

《ふるえ》
銅版画
114.0×167.0 cm
2015
photo: HAYAKAWA Koichi

こうした文脈からすると、私たちは村上の表現を、自己の内面や主観をなかば生理的、衝動的に外の世界にむけて吐きだしたものであると考えがちです。なるほど村上の線が帯びている自発性、原初性も、それを裏打ちしているかに見えます。

しかし、画面全体を支配する不思議な静寂感、無音で物語が進行するかのような感覚はいったいどこからくるのでしょうか。そこには画面に自己の内面を叩きつけるような激しさはありません。むしろ、村上個人の内面や主観を越えた、より客観的な、あるいは普遍的ななにかへ向かうベクトルが明らかに見てとれます。村上個人の心の傷、その記憶から発した個別的な表現は、同時に人間の「痛み」の普遍的な表現、ある種の共同性へと通じているようです。村上の作品は、人間存在の根底にある痛みをめぐって、もっとも個人的・主観的・個別的なものが、じつはもっとも普遍的なものに繋がっているという事例となっているのです。私たちはそこに、鎮魂の祈り、そして救済への希望を見出すことができるのではないでしょうか。あるいは村上の作品には、むしろ主観的/客観的、個別的/普遍的、内容/フォルム(形式)、生/死、善/悪といったあらゆる二項対立をすべて飲みこむようななにか大きなもの、いわば世界の全体、世界の総体が一挙に与えられていると言うべきなのでしょうか。

村上の表現のこうした重層性、多義性は、その版画メディアに固有の制作プロセスによって支えられているともいえます。村上にとって版画というメディアの重要性は、たんに版に刻まれる窪みが、人間の身体的、精神的な傷と同じだという、作家自身の語るアナロジーにとどまるものではないようです。


《ねむりとめざめ》銅版画 118.0×150.0 cm 2016 photo: HAYAKAWA Koichi

《ねむりとめざめ》
銅版画 
118.0×150.0 cm
2016
photo: HAYAKAWA Koichi

まず一般に、版画制作のプロセスとは、支持体に直接描く絵画や素描と異なり、「刷り」が介在する分、間接性が支配的といえます。また村上が、冒頭に指摘したように線描において自発性、直接性を大切にする一方、技法としては彫刻刀や針で直接銅版に窪みを彫る直刻法ではなく、いったん筆で描いた線の部分を、腐蝕液で銅版を腐蝕させることで窪みとして刻むという、より間接的な技法(腐蝕法)を採用している点にも注意が必要です。村上の制作はこの時点で、直接性と間接性のせめぎ合い、その重層性のなかで進行しているのです。また、村上が版画技法に特有の偶然性を積極的に表現に取り込んでいることも重要です。たとえば、村上はしばしば、一度腐蝕によって刻んだ線(窪み/傷)を消す(銅板から削りとる)のですが、その線は完全には消えず、たいてい微かに、場合によってはかなり濃密な痕跡として、最終的なイメージに残っています。その残り具合、見え具合を、村上は試刷りを繰り返すことで制御を試みますが、最終的には偶然の要素に多くをまかせています。銅版画は刷ってみると予想外のディテールがもたらされることが常だといいます。さらに版に残った余分なインクや油膜も表現の要素として積極的にとりこんでいますが、いうまでもなくこれも予測をこえた偶然性によって支配されます。こうした制御と偶然の入りまじるプロセスは間接的というほかなく、表現にある種の距離と、そしてその結果としての客観性と普遍性をもたらすことになります。偶然性を取り込むことは、作者の主観的な「意図」をこえた、より大きな与えられた自然、与えられた全体としての相貌を作品にもたらすことになるでしょう。さらに忘れてならないのは、最終的な刷りのプロセスが、物理的な接触によって、イメージ全体がそれまでの時間の堆積として一挙に与えられるという意味で、固有の「直接性」を帯びているという点です。その「直接性」は、ここでは作者の意図をこえた、やはりより大きな自然の摂理にかかわる直接性なのです。

つまり版画メディアの制作プロセスには、様々な段階とレベルにおいて間接性と直接性のドラマがあるのですが、村上はその重層性を、人間存在の痛みをめぐる自己の表現ベクトルにおける重層性と共鳴、共振させることに成功しているといえるでしょう。村上において、版画というメディアは、たんなる表現のための手段にとどまらず、表現の内実を生み出す重要な契機となっているのです。



ギャラリー展示風景 ギャラリー展示風景
ギャラリー展示風景 ギャラリー展示風景
展示風景

村上早 MURAKAMI Saki
1992 群馬県生まれ
2012 武蔵野美術大学造形学部油絵学科版画専攻卒業
2016 武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻版画コース修了
2016.12 現在 武蔵野美術大学大学院造形研究科博士後期課程作品制作研究領域在学
群馬県在住
   
個展
2016 「トーキョーワンダーウォール都庁2015村上早」, 東京都庁第一本庁舎3階南側空中歩廊, 東京
「村上早」, コバヤシ画廊, 東京
   
主なグループ展
2015 「FACE展2015損保ジャパン日本興亜美術賞展」, 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館, 東京
「第6回山本鼎版画大賞展」, 上田市立美術館, 長野
「トーキョーワンダーウォール公募2015入選作品展」, 東京都現代美術館, 東京
「シェル美術賞展2015」, 国立新美術館, 東京
2016 「絵画のゆくえ2016 FACE受賞作家展」, 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館, 東京
「VOCA展2016」, 上野の森美術館, 東京
「アートアワードトーキョー丸の内2016」, 丸ビル1階マルキューブ, 東京
   
受賞
2015 FACE展2015損保ジャパン日本興亜美術賞展 優秀賞
第6回山本鼎版画大賞展 大賞
トーキョーワンダーウォール公募2015 トーキョーワンダーウォール賞
2016 アートアワードトーキョー丸の内2016 フランス大使館賞
   
参考文献
金井直「村上早」, 『VOCA展2016』カタログ, 「VOCA展」実行委員会, 2016年, pp. 78-79.


■インフォメーション

会場:東京オペラシティ アートギャラリー 4Fコリドール
期間:2016.12.10[土]─ 2017.3.12[日]
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)


休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、12月26日[月]─ 2017年1月3日[火](年末年始)、2月12日[日](全館休館日)
入場料:企画展「画と機 山本耀司・朝倉優佳」、収蔵品展「人間 この未知なるもの」の入場料に含まれます。

 

主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団

 

お問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

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    本日の開館時間 11:00 - 19:00
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