|
||||||||
若手作家シリーズ「project N」の第3回目は、今野尚行(いまの しょうこう/1971年生まれ)の独特な絵画世界をご紹介します。 薄明かりが差し込むカーテン、手のひらのカプセル薬、カビのはえた食パン、スポンジの断面(図版1)など、今野のモチーフは誰もが見慣れている日常のものです。と言っても、真正面からかなりモチーフに接近した視点で、身長大のキャンバスに拡大して描かれるので、私たちが思い浮かべるそれらのイメージとは、しばしば「ズレ」が生じます。 もちろんそのイメージの「ズレ」のためでもあるのですが、彼の絵画は、一般の静物や日常風景と言うには、あまりに奇妙に見えます。その奇妙さは、私たちの想像に対する新鮮で快い裏切りの結果ですが、別の言い方をすれば、一般化されないことの居心地の悪さによるものでもあります。つまり、一般的な日常と、ある特定の個人的な日常との境界を見るような、計算されたあいまいさが奇妙に映るのです。今野の絵画は、不特定で漠然とした日常というよりも、はっきりと誰かの視点による日常を感じさせます。彼はそこに自分自身を滑り込ませます。 |
||||||||
|
||||||||
今野はモチーフを前にして、もしくは写真に撮って、実際に見ながら描いていきます。リアリティについて彼は、「具体的に描いていくことと、自分のリアリティを具現化していくこととの両立というか、両者の接点を見つけるのがむずかしい。(中略)やはり自分の持つリアリティが画面に表れた時を、作品の完成としている」と述べています。新作の《石けん》でも、実際にサンプルとして数種類の石けんをそろえ、選ぶことから始めていますが、画面に見られるのは石けんというモチーフの具体的な表現ではなく、今野のフィルターを通過した、彼にとってリアリティがある石けんです。 手のひらにのる「石けん」を、大きなキャンバスいっぱいのサイズに拡大し、円状の筆致をわずかに残すことによって、石けんは現実の「もの」から描かれた「イメージ」へと飛躍します。彼が大きなキャンバスに描くのは、実際の大きさとの違いによる違和感を利用し、対象物をイメージ化しているのですが、その一方で、そもそも大きく見えている状態に、彼はリアリティを感じているからでもあります。凝視することで視界は対象物に絞られ、さらに一対一の世界になったとき、その一部が大きく迫ってくるように見えます。いわばカメラのズームと同じ原理ですが、彼が絵画で試みているのは、意図せずともありのままをとらえてしまう写真とは異なり、目前にある現実の状態に埋没してしまわず、いかに自分がそこに見るイメージを保ち、それを画面に再現するかであると言えるでしょう。 そのせめぎ合いは、対象物を主観のみで描き、画面に浮遊する完全なイメージに飛躍させてしまわず、あえて一歩、現実の側に留めているところ、例えば数回使った溶け具合や、輪郭ぎりぎりのトリミングで生み出された余白に影をつけているところに見られます。これは《おクスリ》(図版2)など、これまでの作品においても同様にみられる方法です。絶妙なトリミングも、彼の視点がどこまで対象に寄っているかを示すと同時に、どこまでが限界かという、「現実」と「イメージ」のスリリングな駆け引きの結果でもあります。さらに、石けんに付着した一筋の長い髪の毛 ― 彼はこの毛を描くための作品だと言っていましたが ― これが今野自身を作品にこっそり滑り込ませる行為であり、そこで初めて彼にとってリアリティのある石けんになるのです。そこに、一般と個人、客観と主観、そして、具体的に描くことと自分にとってのリアリティを保つことのバランスの合致がみられます。 |
||||||||
|
||||||||
また、《余肉》(図版3)や《膏薬》などのモチーフは、ユーモラスですが、表現によってはグロテスクにもなります。パンのカビや石けんの髪の毛なども、あまり克明な描写になると不快の極地でしょう。しかし、今野の絵画は、奇妙さやユーモアは感じさせても、不快感を伴いません。 彼は、紗幕の向こうに見るような、独特の白みがかったトーンの色彩と丁寧なグラデーションで画面をやわらかく仕上げることで、そのグロテスクたる要因を取り除き、夢のなかで見たときのような、浄化された状態にして提示します。さらに、油絵具を溶くオイルの種類をモチーフによって使い分けることで、画面の艶の度合いを変化させたり、緩やかなカーブを描く筆致を残してやわらかな肉感を演出するなど、不快感を抑えるというよりも、むしろ積極的にキレイに描くアプローチをしています。それは、構図のとり方も含め、描写力に裏づけされた自信によるものと言えるでしょう。実際に彼自身、自分の表現を追求するうえで「最近、描きたいことへ向かう道のりが、より早く、確実になってきた。その道筋が太くなってきた気がする」と着実に行きたい方向へ進んでいる手応えを感じ始めています。 |
||||||||
|
||||||||
個人的な視点に立脚した表現は、一方では現実世界との距離を感じさせるものでもありますが、彼は決して個の中に入り込んでしまうことなく、他人が存在する現実に自分を位置付けています。日常のなかで対象物を凝視しながら、描写力でもってリアリティと照合した自分のイメージを描き出すこと。今野の絵画には、描く行為の基本を改めて見るような気持ちよさがあります。 |
||||||||
|
||||||||
展覧会出品歴 1998 「五美大卒業制作展」(グループ展)、東京都美術館、東京 1999 「第17回伊豆美術祭絵画公募展」(グループ展)、伊豆美術祭実行委員会、静岡県 2000 個展、フタバ画廊、東京 参考文献 2000 今野尚行「アートと私」(大学院修了時の提出文章) |
||||||||
|